きょうの名言は、ピーター・M・センゲさんの「学習する組織」から。
古今東西、世の中はたくさんの名言であふれています。自分にとって「活かせる」名言、みつけてみませんか?
管理職必携の書にして、自己内省に最適な座右の書
管理職を務めていた際、組織の変革に悩み、すがる思いで手にした本が今回ご紹介する「学習する組織」でした。
「組織の変革に悩み」だなんてカッコよく言ってみましたが。「ボクはいったいどうしたらいいんだ~」とただ混乱していた、というのが正しい表現です(笑)
それはともかく。その時から、勤め人を辞めて独立開業した今でも、この本はわたしの座右の書で在り続けています。
ちなみに、600ページに迫ろうかという大容量。内容もカンタンではありません。1度読んだくらいでは理解が及ばない、というのも本音です。
読むたびに理解が深まり、智慧が広がる。そんなわけで時折、思い出したように読み返している本です。
さて。趣旨は名言の紹介ですが、本の内容について少し触れておきます。
著者のピーター・M・センゲ氏はマサチューセッツ工科大学経営大学院上級講師、アメリカの経営学者です。
1990年代の著書「最強組織の法則」により、センゲ氏は日本でも有名になりました。「学習する組織」はその「最強組織の法則」の増補版という位置づけです。
センゲ氏が提唱する「学習する組織」とは。要約するならば、「組織内のあらゆるレベルで、人々の決意や学習能力を引き出す方法を見つける組織」。
つまるところ。経営者などの号令によって組織をどうにかしようなどというのは「長期的には」不可能。個人が学習することによってのみ組織は成長するんだ、と主張しています。
わかっちゃいるけどできていない組織がなんと多いことか、ということで。ダメな組織の事例もふんだんに盛り込みながら、「学習する組織」を定義していきます。
個人が学習したからといって必ずしも「学習する組織」になるとは限らない。が、個人の学習なくして組織の学習なし、である。
組織とはどうあるべきかという視点に加え、組織に属する個人のあり方についても、深い思考の機会を与えてくれるこの本。管理職必携の書にして、自己内省にも最適な書です。
近くにある答えは、答えではないかもしれない
学習する組織に必要な要素として、「システム思考」を説くセンゲ氏はこんなことを言っています。
同じシステムの中に置かれると、どれほど異なっている人たちでも、同じような結果を生み出す傾向がある。
システム思考とは、なにかコトが起きたときに、「表面的なモノ」に目を奪われるのではなく、もっと「構造的・本質的なところ」に目を向けようという考え方です。
「表面的なモノ」の典型が「個人」や「出来事」であり、「構造的・本質的なところ」が「システム」。
わたしたちは問題が生じると原因を探そうとします。が、油断をしていると、目先の「個人」や「出来事」を原因にして終わりにしてしまいます。
極端な例では、「○○さんのせいだ」とか、「今度は△△をしないように気を付けよう」とか。ところが個人としての「○○さん」や、出来事としての「△△」がほんとうの原因ではありません。
もっと大きな背景であるシステムが原因なんじゃないの?とセンゲ氏は言っているのです。たとえば、仕事のしくみやワークフロー、そういうところ。
だから、しくみやワークフローをそのままに、個人や出来事に執着していると同じことの繰り返しなワケです。
問題の原因が「表層」には現れないという点については、次のようにも言っています。
原因と結果は、時間的にも空間的にも近くにあるわけではない
これを教訓としてとらえるならば。あまりにも容易に見つかった原因は疑ってかかるべし、ということでしょうか。
なぜ、そのルールは守られないのか?
「残業規制」に関する興味深い事例が挙げられています。
指示を回覧、就業時間の短縮、オフィスの施錠ということまでして残業をやめさせようとしたけれど。社員は結局、家に仕事を持ち帰って残業をしてました。
という、どこにでもありそうな虚しい話。これに、センゲ氏は次のように指摘しています。
暗黙の目標が認識されない限り、変化の努力は失敗する運命にある。
さきほどの「家でまで残業」の実態には、「暗黙の目標」が存在していると言うのです。どういうことか?
たとえば、出世していくリーダーたちは膨大な残業をしている場合。出世をしたいなら残業してまで働く必要がある、という見え隠れする「出世基準」が「暗黙の目標」です。
「暗黙の目標が外されない」限り、どれだけ変化の努力をしようとも失敗するとセンゲ氏は言っているのです。
どれだけ立派なルールを掲げても、それを掲げたリーダーの働き方や生き様が伴っていなければ組織は変化できない。
守られないルールがあるとき、リーダーは自分自身を振り返る必要があることを教えてくれる名言です。
ウワサ話に翻弄される「抽象化」の恐怖
センゲ氏は世の中のありふれた現象として、「抽象化の飛躍」を危惧しています。
身近な例で言えば、誰かに対するウワサ話を真に受けるというようなこと。ありませんか?わたしはあります。気を付けていないと。
「××さんはカネづかいが荒い」というウワサがあったとして。ウワサをした人が、××さんが高価な洋服を買うところをなんども見ている。これは事実です。
ところが、「カネづかいがほんとうに荒い」かどうかは別の話です。職業柄、身なりに気を付けなければいけない。大事な人へのプレゼントということだってありえます。
ですから、高価な洋服を買ったワケを聞いていないのであれば、「××さんはカネづかいが荒い」というのは事実が一般論化されただけ。
その一般論がさも事実であるかのようにウワサ話になるのを「抽象化の飛躍」だとセンゲ氏は言います。人間は具体的な細部から抽象化することにかけておどろくほど器用だ、とも。
ビジネス上にも枚挙にいとまがないという「抽象化の飛躍」。事実と一般論とは違うのだということに気を付けなければいけません。
たとえば、「この商品が売れないのは、ニーズがないからだ」。これは一般論かもしれません。
「商品が売れない」ことは事実ですが、ニーズはあるかもしれないからです。ニーズを確認できていないうちは一般論。プロモーションの問題ということだってありえます。
直接の観察と観察から推測して一般論化したことを区別できないと、その一般論を検証してみようとも思わなくなる。
なんとも恐ろしい警鐘としての名言、心しておきましょう。
管理職としても、個人としても。学ぶことの示唆に富んだ一冊。
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きょうの執筆後記
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マウス操作が辛いという症状が依然芳しくありません。キーボードを打つ分にはあまり問題がないのですが。
そんなことで、「ショートカット」に本気でとりくんでみようかと。
おかげでいまはスピードが激落ちですが、身を助けるとおもってしばらく続けてみます。