このハナシ。難しいし、つまんないなぁ…
そんな風に思われていませんか。難しい話を上手にするのはムズカシイことでもあります。
とくに、専門家が話す専門的な話というのは、時として難解であり、退屈なものです。
よもやま話をきっかけに
先日、とある専門分野の研修に参加し、講師である専門家の話をうかがっていた際、
つまんない、メッチャつまんないんだけどどうしよう?どうするオレ?
という場面に出くわしました。
3時間ほどの研修で、半分までは我慢し。結局、休憩時間の最中にこっそりと失礼をさせていただきました。
この「途中退場」については賛否両論あることと思いますが。わたしは、いつもこんなことをしているわけではありません。というか、まず途中で帰ったりはしません。
おカネと時間をかけて参加をしているのですから、きっちり学ばせていただこうというスタンスは持っています。
それが今回は、これ以上ここに座っていたら、おカネと時間がもったいない。という判断だったわけです。
このことについて、わたしはその研修講師を批判するつもりは毛頭ありません。あるのは「明日は我が身」という恐怖だけです。
自分が話し手の側に立つとき、やはり同じようなことをしてやしないか?そんな恐怖。
専門家の話がメッチャつまんない理由
「メッチャつまんないんですけどぉ」と感じながら、そのときラクガキしていたのはこんなことです ↓
上図は、「話をすること」について2軸で分類したものです。「話の内容」が難しいか簡単かという横軸と、「話の伝え方」が難しいか易しいかの縦軸の2軸。
わたしが今回「つまんないなぁ」と感じた話は、上図の右上部分にあたります。
「難しいことを難しく話す」というそれは、「知識の披露」。披露といっても、言うなれば独りよがり的な独演です。
聞き手は苦痛でしかない
難しいことを難しく話す例として、「特殊な分野について専門用語を多用する話」を考えてみます。これは聞き手にとって、苦痛でしかないでしょう。
よくわからない話を、よくわからないままに受け入れるのですから当然です。話が長ければ長いほど、不満が蓄積していきます。
誰しも少なからず、聞き手としてこのような経験があるのではないでしょうか。
ではなぜ、そんな経験がありながら。自らが話し手となると、しばしば「難しいことを難しく話す」ことをしてしまうのか?
話し手はラクをする、悦に入る
「専門用語を多用する」というのは、聞き手に「理解」を求めるということでもあります。つまり、聞き手の努力に委ねるということ。
このとき、話し手は専門用語の「咀嚼(そしゃく)」を放棄した状態であり。話し手はだいぶラクができます。
自分が知っている特殊分野のことをただ話す。好きなように話すのは、ラクであり、気持ちよくもあるでしょう。
このことから話し手たる専門家が得られる教訓は、
あまりにラクに、楽しく話をしているときは注意せよ、ということですね。気をつけます。
難しいことを易しく話す
ならば、難しいことを易しく話す。わかりやすく伝える、というのはどうだろう?4分類の右下部分です。
聞き手の満足度最大化
特殊な分野、自分がよくわからないことを、わかるようにしてもらうこと。聞き手が専門家の話に求める価値はまちがいなく「ココ」にあります。
知識や経験を踏まえたうえでの「知恵」を聞き手に伝えること。いわば「知恵の伝承」です。
これにより、これまで聞き手が知らなかった、わからなかったことを話し手が「腹落ち」させることができれば。聞き手の満足度は最大化します。
話し手の苦労度最大化
聞き手の満足度が上がる反面、話し手は苦労を背負い込むことになります。
「難しいことを易しく」はカンタンなことではありませんよね。ゆえに真剣に考えれば考えるほど、その苦労は大きくなります。
話し手の苦労度最大化と引き換えに、聞き手は満足度最大化を手にするようなところがあります。
ひと口に「満足度最大化」と言っても、聞き手の背景は百人百様。話し手の苦労に終わりはなく。
いっぽうで、聞き手の満足を確認できることで得られる「手応え」にも際限はないものです。手応えを求めて、話し手のあくなき挑戦は続く。
その挑戦は「続くものであり、終わりはない」というのがわたしの理解ですがどうでしょう?話し手が満足をしてはいけない、そういうこと。
簡単なことを如何に話すか?
これまで「難しい内容」をいかに話すか、を見てきました。次は、「簡単な内容」をいかに話すか、です。4分類の左半分にあたる部分です。
簡単なことを難しく話す
話し手の「故意」か「過失」か、といった論点からはじまります。
諸事情(?)により、聞き手の意識をそらすため、ウヤムヤとするために。話し手が意図的、故意に「簡単なことを難しく話す」ことはある。かもしれません。たぶん、きっと、おそらく…
他方、話し手の不理解により。無意識的、過失として、「簡単なことを難しく話してしまう」こともあるでしょう。
いずれにしても「煙に巻く」ような話し方で、聞き手は混乱し、場合によっては不信をいだきます。
話し手として、採るべき方法ではない。避けるべき方法として精進すべし、といったところでしょうか。
簡単なことを易しく話す
「なにあたりまえのこと言っちゃってんの?」というやつです。
話し手がKYだ、あるいは無思考である場合などに起こります。周囲を見渡すと、わりと頻繁に起きています。そう言う、わたしだって…まぁ、それはそれとして。
ひとつ例として、プロ野球の解説。9回裏の攻撃、2アウトランナー無しで1点ビハインド。解説者のコメントが次のようなものならばどうでしょう?
「ここはなんとしても、塁に出たいところですね」
あたりまえだろ、オレでもそう言うわ!って話です。とはいえ、このコメントが必ずしも悪いわけではありません。「視聴者心理の共感」を目的にしたものならば、悪くはありません。
「ところが、どうしたら勝てるのか?逆転できるのか?」について、専門家としての回答を求められているのであれば。さきほどのコメントでは不足でしょう。聞き手にとっては不満足。
話し手たる専門家は、聞き手から何を求められているかを知るべきです。鈍感であってはならないし、感じた空気に無思考もいけません。
簡単なことを話すでも。「気の利いた何か」をちょい足しできる機転・器量もまた、専門家には必要な能力であるようです。わたしも鋭意努力します、はい。
まとめ
よもやま話から、専門家が話すことの意味・価値についてみてきました。
どんな分野のことであれ、「専門家が専門家として話をする」というのであれば、4分類のどこに立たされているかを確認してみる必要があるでしょう。
話をする自分の姿と真摯に向き合うとき、意外とびっくりするような場所で話をしていることに気づくのかもしれません。
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きょうの執筆後記
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