きょうの一冊一言は、
長谷川雅彬さん著 『自分が信じていることを疑う勇気』
この一冊から、きょうの自分に活きるひとことを、名言を。レビューしながら見つけ出していきます。
内容紹介
この本の帯には、次のように書いてあります。
「思い込み」を疑うことで無限の可能性が広がる!
このように「思い込み」の危険性や「思い込み」を克服することの重要性を説く、というのは珍しい話ではなく。それらをテーマにした書籍も少なくありません。
にもかかわらず、多くの人が「思い込みの呪縛」から逃れられずにいるようです。アタマではわかっていても実際にはなかなか・・・、といったところでしょうか。
わたし自身もそのひとりであり、この本を手に取った次第です。
さて。著者の長谷川雅彬さんは、ユニークな肩書・経歴をお持ちの方で。
肩書には、プロ格闘家、投資ストラテジスト、ソフトウェア会社のチーフエバンジェリスト、講演家、作家、コンサルタント、アーティスト、美術館のアンバサダーなどが挙げられています。
これだけを見ていると、「なんとも移り気なおヒトだなぁ」という感想も持ちかねませんが。それこそが「思い込み」だとも言えます。
本の中で、長谷川さんは言っています。自分の役割を一つに絞る必要はない。役割は変化するものであり、大事なことは目的なんだ、と。
また、長谷川さんは日本のみならず、イスラエル、スペイン、ロシアでもご活躍とのこと。
人種を超えて、価値観や宗教観など思考の壁を超える。これもまた「思い込み」克服への体現と取ることもできるでしょう。
「思い込み」に対して自覚あるあなたも、もしかして無自覚なあなたも。「思い込み」という扉を開けた先にある、まだ見ぬ自分に気づかせてくれる1冊です。
きょうの一冊一言
『自分が信じていることを疑う勇気』から、わたしが見つけ出したとびきりの名言、一冊一言は・・・
過去は現在が作り、現在は未来が作る。ゴールを変えれば見えるものが変わる
過去は現在が作り、現在は未来が作る。ともするとこれを逆に捉えている、と長谷川さんは指摘します。
つまり。過去が現在を作り、現在が未来を作る。
「あのときがあるから、いまの自分がいる」みたいなことをよく言ったり、よく聞いたりしますよね。過去が現在をつくる、という思い込みの典型でしょう。
では、この思い込みの何が問題だというのか?
「どうせオレなんて・・・」的なあきらめが問題
あのときがあるから、いまの自分がいる。これを未来に置き換えると、「いまの自分が、未来をつくる」。そんなカンジでしょうか。
問題と言えるのは、これをネガティブに捉えた場合です。どういうことかというと、
「どうせオレなんて〇〇だから(現在)、△△はできない(未来)」
どうせオレなんて、ワタシなんて・・・ と落ち込むことは、きっと誰しも経験はあるでしょう。
この「過去が現在を作り、現在が未来を作る」という考え方が「思い込み」なのでしょう? と指摘するのが先ほど引用した長谷川さんの名言です。
そんな「思い込み」に対する、長谷川さんの考えはというと、
いまが未来を作るわけじゃない。描く未来(ゴール)を変えれば、自ずといまの自分の在り方も変化する。
結果、未来も変わる、変えられる。どうせオレなんて・・・、などということはないんだ。そういうことです。
たとえば、「あたらしい〇〇をやりたい」というゴールを強く想うのであれば。〇〇に必要なものや方法を模索するようになるでしょう。
〇〇の情報に興味関心を持ち、アンテナを張る姿勢に変わることでしょう。ゴールを変えれば、いままでとは違う「いまの自分」に変われるということです。
「いまが過去を作っている」ことに気づく
それは言葉遊びではないのか、綺麗事ではないのか。そんなことを思われるのかもしれません。
それでは、「過去は現在が作り」という部分についてはいかがでしょう? 「あのときがあるから、いまの自分がいる」というハナシですね。
ただこれも、よくよく考えてみると。「いまの自分」の状況から、無理矢理「あのとき」に結び付けているだけかもしれません。
たとえば。「オレって、すごい努力家なんだよね」というヒトが、こんなことを考えていたとします ↓
これは「オレ」が、自分は努力家だという現在に注目しているからです。なにごとも努力がすべて、そんなふうに考えている「オレ」です。
では、なにかの加減で、「すべてはヒトの助け合ってこそだ」とオレが考えるようになったらどうでしょう ↓
このように、現在の「オレ」の在り方しだいで過去は変わるのです。わたしたちは、いまの自分にとって、都合のよい過去ばかりを選んでいるのかもしれません。
この点、「使用の心理学」と言われるアドラー心理学でも同じようなことが言われています。
過去がいまを決めるのではない。あなたの「いま」が過去を決めているのだ、と。
その他 注目の一言
一冊一言以外に、『自分が信じていることを疑う勇気』から見つけた気になる一言を。
私たちは自分が信じているようにしか物事を見ることができません。
こう言われると、思い当たることばかりです。
自分が正しいと考えることについては耳を澄ませるいっぽうで、そうでないことについては聞く耳を持てない。
自分が関心のあることについてはすぐに目がいくのに、そうでないことについては見逃してばかり。
自分が見たり、聞いたりしているものがすべてなのだと誤解し、錯覚していることもあるでしょう。
しかし、わたしに言わせれば。それはもう「しかたのないことだ」というあきらめがあります。
ヒトがヒトである以上。人それぞれの思考や考え方に縛られた目や耳の動きになってしまうことは、きわめて自然なことだと考えるからです。
けれども。
それをそのままあきらめるのか。それとも、そういう傾向があるから気をつけようと注意するのかではまるで違います。
物事を客観的、大局的、多面的に見ることについては論をまたないところであり。
やはり、自分の偏った目や耳については常々自覚をしておくべきことでしょう。わたしたちは自分が信じているようにしか物事を見ることができないのですから。
「疑う=否定する」ではない
さいごに、もうひとつ名言を引用させていただきます。
・・・(省略)・・・ 疑うとは「本当に必要か」「他の方法はないか」という第三の選択肢を考えることだ ・・・(省略)・・・
この本のタイトルは「自分が信じていることを疑う勇気」です。そう、「疑う」ことを推奨するという書籍です。
ところが普段、この「疑う」という言葉には、あまり良いイメージがありません。
多くの場合、「疑う」と言えば、その対象を否定するかの如く受け取られるのが普通でしょう。
これについて、著者の長谷川さんが「疑う」ことの正しい定義づけとして述べたのが上記の名言です。
疑うとは否定することではないよ。それは本当に必要なのか? とか、他に方法はないのか? とか。そういう別の選択肢に目を向けることだ。
と、そのように定義づけています。
もしかしたら、わたしたちは「疑う」という言葉が持つ誤ったイメージ(=否定する)に支配され、無意識のうちに疑うことを避けようとしているのかもしれません。
そうしてますます、わたしたちは「思い込み」の中から抜け出せずにいるのかもしれません。
「疑う」ことの本質をいまいちど理解し直し、疑う勇気を持ちましょう。長谷川さんはそのように提唱しています。
いま現在の目の前に限界を感じ、行き詰まりに悩む人に。あらたな選択肢を見出すきっかけを与えてくれる、そんな名言でした。
《限界に悩み、この限界を超えたいと願うあなたにおすすめの1冊》
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きょうの執筆後記
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