この迷い多き毎日を、より心静かに過ごすには・・・?
しばし日常を離れ、「坐禅」を組んでみるというのはいかがでしょうか。
古都・鎌倉の円覚寺では毎早朝、暁天坐禅会が行われています。その体験レポートです。
早朝の鎌倉、円覚寺・暁天坐禅会に参加しての体験レポート
俗世に嫌気した、というでもなく。神仏にすがろう、というでもなく。
ただただ、出来得る限り心静かにあろう。そんな思いから、ふと「坐禅」を組んでみたくなりました。
なにぶんはじめてゆえ、坐禅の動機としては正しいのかどうかはわかりかねますが。
とにかく生きていればいろいろある毎日です。
せめて心静かにあろうという願いを、坐禅は受け入れてくれるものだろうか?
そんな不安を抱きつつも。単身、早朝の鎌倉、円覚寺(えんがくじ)にて。暁天坐禅会に参加をさせていただきました。
「暁天(ぎょうてん)」の文字どおり、毎早朝、明け方に行われている一般の方向けの坐禅会です。
はじめてだけど坐禅会ってどんな感じなのかな? という方向けの記事となっております。
繰り返しになりますが、はじめての坐禅ゆえ。わたしの不理解や誤りなどがあるかもしれませんこと、あらかじめお断りをさせていただきます
円覚寺・暁天坐禅会の概要
円覚寺のWEBサイトによれば、下記5つもの坐禅会が行われており。「開かれた寺」であろうことがわかります。
- 日曜説教坐禅会
- 暁天坐禅会
- 土曜坐禅会
- 日曜坐禅会
- 学生坐禅会
それぞれの坐禅会の違いは同WEBサイトに委ねることとして。わたしが参加をした「暁天坐禅会」について、以下、その概要を引用をさせていただきます ↓
《 円覚寺・暁天坐禅会 》
年中無休 (日曜・祭日もあります)
※但し1月1日~7日・10月1日~5日及び行事あるときは休み
午前6:00~7:00
(初めての方は10分ほど前にお越しください。作法や坐相の説明があります)
[場所]仏殿参加随意(予約不要)
※夏季の台風、冬季の大雪の際、休む事あり
※団体参加は不可
※途中からの参加は不可【2017年8月6日現在 円覚寺WEBサイトより引用 http://www.engakuji.or.jp/zazen.html】
特徴としては、「毎早朝」というところ。気持ちあらば、いつでも参加可能です。予約も要りません。参加費も無料。
とはいえ。午前6時からの開始であること。また、「坐禅」ということ以外に情報もなく。まったくの初心者にはなんとも高いハードルを感じます。
そもそも、いったい何を着ていけばいいんだろう? そんなことでも、腰が重くなる始末です。
でもそこは、「思い切って行ってきましたよ」というのが、このあとのお話です。
北鎌倉駅から坐禅会までの道のり【注・正門は開いていない】
暁天坐禅会が行われる円覚寺の最寄り駅は「JR横須賀線・北鎌倉駅」です。
坐禅会の開始は朝6時。下り電車で北鎌倉駅に向かう場合には5時14分着(2017年8月6日現在)です。
その次の電車は5時47分着となるため、これでは間に合いません。よって、下り電車であれば、北鎌倉駅に5時14分着の横須賀線に乗ることになります。
ちなみにこれは北鎌倉駅の下り始発電車。上り電車の場合には本数が多いため、もう少し選択肢が増えます。
で。こちらが、北鎌倉駅到着直後の様子です ↓
日曜日ということもあってか(?)、わたしのほかに降りた客は2名ほど。ひどく心細くなる気持ちを抑えて、円覚寺を目指します。
徒歩5分で「裏門」前に到着、そして途方に暮れる。
目指すといっても、北鎌倉駅を出てすぐのところに円覚寺はあります。
とにもかくにも、まずは駅を出ることにしましょう。そこでちょっと面食らうのが、見渡せど駅員さんの姿はなく。無人駅的な改札です。
なんか自由に出入りできますけど・・・、と思いつつもSuicaを機械にタッチして改札の外へ ↓
北鎌倉駅の下りホーム側の改札から外に出るとすぐ、線路わきに「案内板」が見つかります ↓
これによれば、円覚寺はわずか50m先。徒歩2分とのこと。進みましょう。
すぐに、円覚寺の正門(総門)前に到着します。けれども早朝のこの時間、正門は閉まっています。
階段を登った先にある門の前には「閉門」の文字。ここを登ってはいけません ↓
閉門されている正門を後にし、さらに線路沿いを下り方面に向かって進みましょう。
すぐ先の左手に、こんどは「裏門」に続く道が現れますのでここから境内に入ります。少し登ったところに「裏門」が見えます ↓
この時点で、まだ5時20分前後だったわたし。さすがにまだ早かろう、と周辺をウロウロ。
5時40分ごろ、ようやく裏門(関係者通用口)に手をかけました。周辺に人は居ませんが鍵は開いていますので恐る恐る境内へ ↓
境内に入ったらまっすぐ「仏殿」へ
裏門を入ったら、そのまま道をまっすぐに登っていきます。
暁天坐禅会の場所は「仏殿」と呼ばれるところ。ここまでの道のりも含めて、地図で示します ↓
裏門からまっすぐに坂を登り、「仏殿」前に行くと、すでに来られている方4名ほどが列になっていました ↓
「おはようございます!」と声をかけるような雰囲気ではないことを感じ、静かに列の最後尾に並んで待つことに。
しばらくすると、別の参加者の方がわたしの後ろに付きました。このとき、その方が不作法で手持無沙汰なわたしにそっと教えてくださいました ↓
- 列では、仏殿に向かって手を組んで待つこと
- 自分の後ろに人が来たら、その人に向かい合掌し、礼をする。その後、再び仏殿に向き直り、合掌し、礼。手を組んで待つ
手を組む、というのはこのような感じです ↓
右手が下、その上に左手を軽く乗せ。親指同士を軽くつけて、「丸い輪」をつくるイメージです。
6時前になるとお坊さんが来ますので、列の先頭から付いて、皆で仏殿の入口へと向かいます。
いよいよ坐禅会がはじまります。
60分の坐禅会で心静かにただただ集中する
仏殿の入口には「扉」があり、お坊さんが開けるのですが、お手伝いをしている参加者の方もいらっしゃいました。
わたしは勝手がわかりませんので、ただ待つのみですが。扉が開くと、周囲にはいっそう厳かな空気が拡がります。
仏殿内部の図
仏殿に入ると、内部は下記の図のようになっています。細部まで見て回ったわけではありませんので、「なんとなく」の図でありますことをお断りしておきます。
さきほどお話した扉を開けて入るのは、仏殿の「裏側」に当たります。待機列から、上図の赤矢印のように仏殿内部に移動します。
この移動のあいだのポイントを順に示すと、
- 履き物は扉の外で脱ぐ(もちろんそろえて置く)
- すぐにスリッパが置いてあるので履く
- 荷物置き場があるので、手荷物は置いていく
- この時点で靴下は脱いでおくとスムーズ
- 座布団置き場から、大きい座布団1枚と小さい座布団2枚をお借りする
- 仏殿の壁に沿って並ぶ長イスに座って待機する(はじめての場合には、上図の丸点線内あたりが良いらしい)
- 連れがいるような場合でも、声を上げて話をするようなことは厳禁(静粛に!)
ということで、長イスのところで待つわけですが。慣れた方々は坐禅の準備をはじめています。
ところが、はじめてであれば何もわかりませんので。長イスに普通に腰かけて待ちましょう。のちほど、お坊さんが声をかけてくださり、丁寧に教えていただけます。
この間、周りを見渡してみると。最終的に20名くらいの参加者がいらっしゃいました。真夏の日曜日早朝、こんなにも人が集まるのだな、と少し驚き。
わたしが気になっていた服装ですが。男性の方は、意外とラフ。短パンにTシャツやポロシャツ、という方も。
女性の方はやはり、ズボン(パンツ)が多いですね。坐禅を組みますからスカートではやりづらいことと想像します。いずれにせよ、皆さん平服です。
ちなみにわたしは、やわらかめのスラックスに、白い半袖のYシャツ。身なりとしては、かなりカッチリめな方でした。
あまりにダラダラユルユルというようなことでない格好であれば、動きやすい服装ということでよいように感じました。ご参考まで。
坐禅の準備
坐禅会の直前、はじめての参加者には、お坊さんから「坐禅のしかた」についてご説明をいただきます。
事前のイメージとして、要約させていただくと次のようになります。 ↓
- 長イス1脚に、最大3名が座る(下図「長イスの座り方」を参照)
- 長イスのうえに座布団を整える。一番下に大きな座布団。坐禅を組むお尻の下あたりに小さな座布団を2枚重ねて載せる(下図「長イスの座り方」を参照)
- スリッパを揃え、長イスの下にしまう
- あぐらをかく要領で座る。上になる足のかかとをおなか側にひきつけるように。足の裏が上を向くようなイメージ(下写真「座り方」を参照)
本来、両足について行うようですが。慣れていない場合には上になる足のみでよいようです(このほうがラクなので)。 - 小さい座布団とお尻の位置を調整し、座りを安定させる
- 骨盤を立て、背筋を伸ばす。頭の先は天井から糸で釣られるようなイメージで、さらに天井を突き抜けるような伸びやかさ。お尻は大地に根を張るイメージで
- 顔の向きは下を向かずに真正面。あごを引く。視線だけを1~2m先の床に落とす(眼は閉じない)
- 手を組み(さきほど掲載した写真のとおり)、丹田(おへその少し下)のあたりに付けておく
- 息をゆっくり目いっぱい吸い込み、細くゆ~っくりと吐いていく。息を吐きながら、そのたびに、「ひとーつ」「ふたーつ」と呼吸を数えていく(頭の中で)
坐禅会開始 前半の坐禅
お坊さんからの説明ののち、合図により、坐禅会が始まります。
わたしの場合はなにしろ坐禅は初めて。さきほどの説明の内容を忘れないように、忘れないようにと、坐禅の型に集中しておりました。
ところで。坐禅のイメージとして、「心を無にする」といったことがありますが。これはタイヘンに難しいことでしょう。
このあたりについて、お坊さんが説明の中で次のようなことをおっしゃっていました ↓
呼吸の数をひとつ、ふたつ、と数え続けること。呼吸の力を借りて、坐禅に集中します。
というわけで、心を無にするというよりは、坐禅をしていることに集中をする。
ところが、未熟で散漫なわたしは「十(じゅう)」数えることすらままならず。数え始めてしばらくすると、すぐになにか違うことを考えているんですよね・・・
こういうときは、また「一」から数え直します。「ひとーつ」「ふたーつ」。
こうして、わずかずつですが、わたしも坐禅に集中をしていくことができたようです。
気が付けば、坐禅終了の合図。時間にして15分から20分くらいでしょうか(腕時計を外していたため感覚です)。
ここまでが坐禅の「前半」になります。このあと、休憩を経て、坐禅の後半に移ります。
腕時計は事前に外して手荷物といっしょにしておきました。常時つけている肩こり用の磁気ネックレスも。特にお話はありませんでしたが、装飾品は馴染まない雰囲気を察知したもので。
坐禅会 休憩・警策の説明
後半の坐禅の前に、5分ほどの休憩があります。
この間に、坐禅はじめての参加者には、お坊さんから「警策(けいさく、きょうさく)」の説明をいただきます。
坐禅をしている人の肩を、お坊さんがパシーンと叩く棒が「警策」です(わかりやすさを重視し、程度の低い表現ですみません)。
警策に関する説明の要点を整理すると、
- 坐禅を組んでいる間、警策を持ったお坊さんが巡回する
- 警策を受けたい場合には、お坊さんが自分の前を通る際に合掌。合掌したまま、お坊さんに礼(お坊さんも礼をするので合わせる)
- 礼ののち。両肘を抱え込むようにしてから、頭を深く下げ前傾し、背中を丸める(肩甲骨などに警策が当たると痛いので丸みを帯びた形になる)
- 両肩から背中の上あたりを、左右2回ずつ、警策をお受けする
- 姿勢を戻し、合掌。そのまま、お坊さんに礼
お恥ずかしい話ですが。警策は「たるんどる!」みたいな人が受けるものだと思っておりました。
けれどもここでは、自らお願いをし、受けるもの。
ところで説明の際、隣の参加者の方がお手本として警策を受けられたのですが。想像を超えた警策の勢い、音、風圧を感じ。我が身までもが引き締まる思いに。
坐禅の後半に入ります。
坐禅会 後半の坐禅
休憩および警策の説明後、ふたたび合図により坐禅がはじまります。
お坊さんは警策を持ち、参加者の前を一往復されます。この間に、警策をお受けすることになります。
わたしもお願いをいたしました。正直言って、「痛い」です。想像を超えて痛い。けれども不思議と、どこか澄んだ風を心に感じることができました。ほんとうに。
その後も仏殿内に鳴り響く警策の音に気を取られながらも、ただひたすらに坐禅に集中することを心掛け。
だいたい20分くらいでしょうか、後半の坐禅も終了です。
少々余談ではありますが、坐禅はどこででもできると言えばできます。
ですが、日常の時間・場所とは離れたところに身を置き、集中できる(ある意味、集中せざるを得ない)坐禅会は貴重な機会と言えるでしょう。
お経を読む
坐禅会は坐禅を組んで終わりではありません。後半の坐禅のあと、皆でお経を読みます。
と言われても。お経なんて読んだことないし、心得もまったくありません。
ここでお坊さんから「お経」をいただけます。「修養聖典」と書いてあります。中には般若心経などが納められています ↓
ここで小さな座布団は外し、正座になります。手は合掌し、両人差し指と親指の間に「聖典」を挟み持ちます。ページは両親指で繰っていきます。
すべて「ふりがな」がふってあるので、皆に合わせて一緒に読む。まずはそれで良いようです。とにかく「声を出して読んでください」とのこと。
音程もリズムもまったくとれないけれど、とにかく声に出して読みました。意味はまったくわからないけれど読みました。
それでも、仏殿に響く皆の大きな声に、不思議な力を感じながら。とくべつ信心も持たないわたしでも、その力の一端は感じることができるほど。
あぁ、これは意味を理解したいな。こんど伺うまでには、少しは勉強しておこう。そんなことを考えたしだいです。
約15分ほどの時間、お経を読み、坐禅会は終了。手早く後片付け、身支度を整え、再び仏殿の外へ整列。解散となります。
【後日譚】般若心経 ロック調現代語訳について
お経について、少しは勉強しようとネットで調べ事をしている最中に、「ロック調 現代語訳」なるものを見つけました。
少し古い話ですが、2011年ごろ、ニコニコ動画を通じて大きな話題になったそうです。作者・引用元ははっきりしない、とのこと。
大胆な意訳は理解がしやすく、軽快なリズムが心に響く。
「本家」からすれば「まがい物」であるに違いはないのですが、こんな「イイこと」が書いてあるものなんだ。と興味関心を持つには十分な現代語訳です。
わたしも含め、坐禅・般若心経の入門者に向けて。ここに引用をさせていただきたく思います ↓
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。この般若を覚えとけ。短い言葉だ。
意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?
『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』心配すんな。大丈夫だ。
まとめに代えて
鎌倉・円覚寺の暁天坐禅会の参加体験をまとめさせていただきました。
あたりまえですが、たった一度の坐禅で悟りが開けることもなければ、何かの答えを見出せたわけでもありません。
けれども、心静かに、ただただ坐禅に集中する行為が、いつか自分の中にある「何か」を変えるのかもしれないとは思います。
坐禅には、坐禅自体を「手段」とみる考え方と、坐禅自体を「目的」とみる考え方があるようです。
今回の坐禅でいえば、わたしは後者。目の前の坐禅に集中する。坐禅自体が目的としての坐禅でした。
毎早朝いうわけにはいきませんが、折を見て、坐禅に身をおくきっかけとして。また参加をさせていただきたいと考えています。
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きょうの執筆後記
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