世の中でもっともらしく言われている言葉のなかには、実は、「真に受ける」とあまりよろしくないものもある。
というわけで。真に受けると「足が止まる・足を引っ張る言葉」と僕の対策についてお話をしてみます。
世間の正解がじぶんの正解とは限らない。
世の中でもっともらしく言われている言葉のなかには、「真に受ける」とあまりよろしくないものもあるよね。なんてことを考えています。
よろしくない、とは。じぶんの「足が止まる」とか、じぶんの「足を引っ張る」とか、そういう面でよろしくない。
具体的には、こちらの言葉になります ↓
- 間違った方向の努力はしないほうがいい
- 量より質がだいじ
- 誰が言ったかよりも何を言ったか
どこかで見たことがある。どこかで聞いたことがある言葉たちです。
これらの言葉を見聞きしたときには、真に受けることがないように、じぶんなりの「対策」をとるようにしています。
というわけで。「足が止まる・足を引っ張る」にいたった経験と、対策の内容についてお話をしてみます。
真に受けると「足が止まる・足を引っ張る言葉」と僕の対策
間違った方向の努力はしないほうがいい
間違った方向の努力はしないほうがいい、との言葉を真に受けなくてよかったな。という経験があります。
たとえば、毎日更新しているこのブログ。はじめてから1年くらいまでは、毎日更新に不慣れなのもあり、続けるかどうかを悩んでいた時期がありました。
そんな折に「間違った方向の努力はしないほうがいい」みたいなことを言われて。そうだよな、やめたほうがいいのかなぁ… と迷いもしたわけです。
それでも持ちこたえた結果、「続けるという努力をやめなくてほんとうに良かった」と思っています。まさに「結果論」です。
はじめっから間違いかどうかを判断することなどできないし、ひとまず努力をしてみたからこそ間違いにも気づくのだろう。と、考えています。
これに対して、はじめっから「間違った方向の努力」を嫌いすぎれば。ただただ、必要な挑戦や努力を否定することにもなりかねない。挑戦や努力から逃げ続ければ、じぶんの足が止まるし、足を引っ張ります。
というわけで。「間違った方向の努力はしないほうがいい」との言葉を見聞きしたときには、「いやいや、まずは努力、まずは挑戦」とかまわず行動するのがわたしの対策です。
ちなみに、「間違っているか否か」の判断基準もさまざまです。このブログの例で言うと、「とにかくPVを増やす、閲覧者を増やす」という基準で見れば、わたしの努力はムダが多いとも言えるでしょう。
一般的には母数が少ないであろう「銀行融資」をテーマにした記事を中心に、毎日更新し続けていますので。もっと広くウケるテーマもあるだろう、というハナシです。
もちろん、PVや閲覧者が増えることも目指してはいるけれど。基準はほかにもあります。じぶんらしい生き方の助けになるかどうか、という基準。
わたしの場合。ブログの毎日更新を続けて、じぶんの人生が大きく変わったと感じています。じぶんらしい生き方を見つけることができた、と感じています。
人それぞれ、そのときどきで「間違いの方向性(判断基準)」も変化をするものです。「間違った方向の努力」かどうかは、誰かに決められるものではなく、じぶんが決めるもの。「いま」のじぶんが決めるもの。
他人が言う「間違った方向の努力はしないほうがいい」の言葉を、そのまま真に受けることがないように気をつけましょう。
[ad1]量より質がだいじ
量より質がだいじ、との言葉を真に受けなくてよかったな。という経験があります。
たとえば、税理士試験の受験です。だいぶ昔の話にはなりますけれど。その当時は会社勤めをしながら、とにかく「量」を重視して勉強をしていました。
危険なので褒められた行為ではありませんが、歩きながらでも勉強をしていたし。朝は早く通勤して始業前に勉強、昼休みも可能な限り勉強をしていたし。
いっぽうで。社会人は仕事だってあるのだから、「量より質の勉強が大切だ」とするお話があります。まぁ、ごもっともです。
そこで、「効率よく勉強するコツ」みたいな話になるわけですが。気をつけないと、「単なる怠け」につながるので気をつけなければいけません。
コツを知ったことで「わかったつもり」になり、安心からかほんとうはもっとできるはずの勉強をしなくなったりしてしまう… 人間ってラクな方に流れますものね。もちろん、わたしも含めて。
これに対して、「量」を重視したうえで「質」を求めると違った結果が待っています。
税理士試験の話に戻ると。わたしは、「もう限界かも」という勉強量のさなかで、勉強の「対象をしぼる」という方法をとることにしました。税理士試験の半分は「法律の暗記」なのですが、暗記の対象をしぼったのです。
と言っても、ヤマを張るのではなく。70〜80点はとれるくらいに、暗記の対象を「減量」して覚える方法です。これで、暗記がめちゃくちゃラクになりました。
結果、時間が空きましたから、残りの半分である「税金の計算」の勉強に時間をさくことができるようになったのです。
でも、これはもともとの「量」があったからこそだと思っています。もともとの勉強量があったから、空いた時間で別なことをやるのにも抵抗なく済みました。
これが、もともとの勉強量がないところで、「質ありき」や「コツありき」だったとしたら、空いた時間は勉強をしていなかったように思います。効率的に勉強しているつもりになって、実は単なる怠け。合格は遠のいていたのではないでしょうか。
というわけで。「量より質がだいじ」との言葉を見聞きしたときには、「いやいや、量も質もだいじ、まずは量」と考えて行動するのがわたしの対策です。
それなりに量をこなしたからこそ、「質」についても理解できるのであって。さっぱり量もこなさないうちから「質の善し悪し」なんて理解できなくない? と思うのですがどうでしょう。
[ad1]誰が言ったかよりも何を言ったか
誰が言ったかよりも何を言ったか、との言葉を真に受けなくてよかったな。という経験があります。
たとえば、SNSやブログでの発言について。同じようなことを言っているのに、Aさんが言うとめちゃくちゃ反応があって、Bさんが言うと反応がぜんぜんない。みたいな。
ちなみに、Bさんがわたしだったりする、という聞くも悲しい経験です(笑うところですよ、ここ)。
この点で。「本来、誰が言ったかよりも何を言ったかであるべきだよね」といった言葉があるわけで。わたし自身も、思わず同調しかねないところです。
けれども、そのような同調は「じぶんを正当化」しているに過ぎず。じぶんの「足を止める・足を引っ張る」ものだと考えるようにしています。
Aさんには反応を得られるだけの「理由」があるし、Bさんには反応を得られないだけの「理由」がちゃんとあるからですね。
ここで言う「理由」とは。たとえば、「人となり(外見や性格なども含めて)」であったり、これまでの「経緯」であったり、他者との「関係性」であったり、はたまた「実績」であったり。
そういったものがAさんにはあるけれど、Bさん(というかわたし)には無い。その結果が、発言に対する反応の差にあらわれているに違いない。
端的に言えば、わたしには足りないものがあるということです。これは決して「謙遜」ではなく、「客観的評価」として足りないところがある。
だから、「誰が言ったかよりも何を言ったか」だと感じるようなときには、できるだけじぶんを客観的に評価してみる。その誰かとはなにが違うのかに目を向けてみることを対策にしています。
何が違うのかに目を向けることで、じぶんに足りなかったものが見つかる。それがじぶんにとって必要であれば補う。けれども、必ずしも足りないものを補おうとする必要もなく。要は、「他人は他人、じぶんはじぶん」と、じぶんらしさを確認できればよいのかなと。
いっぽうで、「誰が言ったかよりも何を言ったか」をただただ真に受けると、自己正当化や自己満足に陥るばかり。結果として、じぶんの「足を止める・足を引っ張る」ことになりそうです。
まとめ
世の中でもっともらしく言われている言葉のなかには、「真に受ける」とあまりよろしくないものもあるよね。なんてことを考えています。
世間の正解がじぶんの正解である、とは限りません。
真に受けると、じぶんの「足が止まる・足を引っ張る」ような言葉はないかな? あれば、どう対策したらいいかな? と、考えてみるのはいかがでしょう。
- 間違った方向の努力はしないほうがいい
- 量より質がだいじ
- 誰が言ったかよりも何を言ったか