モノゴトに関わるかどうかは、「成果」と「必須」のバランスで決める。
その一例として。わりと最近、Twitterを2ヶ月でやめたハナシをしてみます。
Twitterを2ヶ月やってやめた僕。
わりと最近のハナシになりますが。2020年3月〜4月の2ヶ月のあいだ、以前よりも Twitterに関わる時間を増やしていました。
Twitter歴は4年以上あるものの、ツイートはほぼほぼ「ブログの更新情報」のみ。あとは「いいね」や「リツイート」を少々… という関わり方でした。
いっぽうで。Twitterを活用して、人との「出会いを増やす」とか、「コミュニケーションを増やす」といったことには興味があり。いっちょ、やってみっか! とTwitterに関わる時間を増やしてみた。という経緯です。
と、言っても。バンバンとツイートするまではいかず。じぶんの得意な分野の「情報」と、じぶんの「価値観」に関して、いずれかを1日1ツイート以上。そのくらいの関わり方です。
それでも、以前に比べて3倍以上の「インプレッション」「プロフィールへのアクセス」、5倍以上の「新規フォロワー増加」となり、少なからず当ブログを知っていただく機会にもなったものと推測しています。
また、ツイートへのコメントなどもいただくことで、コミュニケーションの機会も広がりました。
というわけで。当初興味があった、人との「出会いを増やす」とか、「コミュニケーションを増やす」といった部分での「成果」が出たわけです。
けれども。結局、いまはTwitterとの関わりを元に戻しました。つまり、ツイートはほぼほぼ「ブログの更新情報」のみという関わり方です。
ではなぜ、これ以上の「成果」を求めず、元の関わり方に戻したのか? それは、じぶんにとって Twitterが「必須」ではない、と考えたからです。
「成果」自体は評価すべきものではあるけれど、その成果がじぶんにとって「必須」かどうかはまた別のハナシ。そういうことです。
でもこれって、Twitterに限らず、モノゴト全般に言えることなのかな。と、考えています。
「成果」を重視してモノゴトに関わっていると、じぶんがほんとうにだいじにすべき「必須」のモノゴトとの関わりが薄くなる。ほんとうにだいじにすべきモノゴトがおろそかになるのでは? と。
興味あるモノゴトすべてにかまっていられるほど、ヒトには「時間」がありません。
なので、モノゴトに関わるかどうかは、「成果」と「必須」のバランスで決める。その一例として、このたびのTwitterとの関わりを例にお話をしてみることにします。
Twitterで「成果」は出るけど「必須」ではないと考えた3つのポイント
あくまで、「わたしの場合」ということですが。成果と必須のバランスで見たときに、「Twitterが必須ではない」と考えるにいたったポイントは3つあります。こちらです ↓
- フローよりもストックで貢献したい
- 承認欲求を抑えきれない
- 知らなくていいことに時間を奪われる
それではこのあと、順番に見ていきましょう。
フローよりもストックで貢献したい
Twitterを通じて、「情報」を提供することができます。この「情報」の特徴として、よく言われるのが「フロー(流れる)」です。
Twitter上にある情報は、「フロー」し続けていて、古い情報はどんどんど流れ去ってしまう。言い換えると、「ストック」されない。蓄積されない。
それでも、「あたらしい情報にこそ価値がある」との見方をすれば、「フロー」はTwitterの優れた特徴でもあります。
この点で。わたしは、情報を提供する者として、「フローよりもストック」で貢献したいとの考えです。
どこかのだれかが「うーん、困ったなぁ…」というタイミングで、ネットから調べ物をしたときに役立つ情報を提供したい。そう考えると、このブログの記事や、最近はじめたYouTubeの動画は、貢献できる可能性が高い。
ストックされた情報が、フローする情報に勝る。などということはありませんが。
どんな情報を提供するにしても、「相応の時間」が必要です。限られた時間のなかで、あれもこれもとはいかず。どっちかと言えば、わたしなら「ストック」のほうだ! というだけでのハナシです。
実際、Twitterとの関わりを増やした2ヶ月のあいだ。Twitterにかける時間は増えました。1日1ツイートしかしなくても、その準備やコメントへの対応、新規フォロワーへの対応などで 20〜30分くらいはかかります。
1日30分ならば、1ヶ月で 15時間、1年にすると 7.5日分に相当する時間です。けっこうスゴいですよね。7.5日あったら、いろいろできますわ。
だから、「成果」と「必須」のバランスをとらなければいけないわけです。
フロー情報による成果もあるけれど、じぶんにとって、よりだいじなのはストック情報で貢献をすること。そう考えて、Twitterでの関わり方は減らした、元に戻した、ということです。
[ad1]承認欲求を抑えきれない
Twitterにしても、Facebookにしても、Instagramにしても。SNSと呼ばれるものには「承認欲求」という魔物が潜んでいます。
じぶんが「なにか」を投稿したら、やっぱり「いいね」なり「リツイート」なりの反応があると「うれしい」ものでしょう。これが、承認欲求ですね。
「うれしい」くらいならまだいいのですが。反応が気になって気になってしかたない、気がつくと四六時中 SNSをチェックしてしまう… となると承認欲求も「害悪」になります。
もちろん、承認欲求を適度にコントロールできる人もいるのでしょうけど。それをコントロールしづらいようにつくられているのがSNSです。たくさんの人をクギ付けにさせようと綿密に計算をされてつくられているのがSNSです。
なので、思うに「超人的」な自己統制力がある人でなければ、わりとカンタンに承認欲求に屈することになるはずです。つまり、気がつけば SNSをチェックしてしまう、という状況ですね。
ご多分に漏れず、わたしも承認欲求に屈しました。それこそ時間をかけてツイートしているのですから、その反応は気になります。うれしいことに、いつもより反応があったりすると、さらに気になります。
SNSの利用には、じぶんなりのルール(利用できる時間、時間帯を決める、など)を設けているにもかかわらず。ちょっとだけ見ちゃおっかな… という欲求を止められないこともありました。だいぶあった。
ちなみに。以前から続けている「ブログの更新情報」ツイートには、そこまでの欲求はありません。もともと、それほどの反応はないので… って、さびしすぎるハナシです。
それはそれとして。わたしにとって、承認欲求を満たすことは「必須」ではありません。それよりも、だいじな「時間」こそが「必須」です。1年で 7.5日は違うことに使いたい。
そう考えて、Twitterでの関わり方は減らした、元に戻した、ということです。
[ad1]知らなくていいことに時間を奪われる
じぶんがツイートを増やすと。その反応をチェックしたり、コメントに対応したり、新規フォロワーの対応をしたりで、Twitterを利用する機会も増えます。
すると、他人のツイートを目にする機会も増える。そこには、「へぇ〜」とうなるような情報があれば、「オモロっ」と楽しくなるような情報もあります。
タイムラインにはとめどなく情報が流れ続けるので、いちど見だすとキリがありません。キリがないのにもかかわらず、タイムラインの情報を見続けてしまうのは、心理学でいうところの「間歇(かんけつ)強化」でしょう。
有益な情報、おもしろい情報を求めて、Twitterを見続けてしまう。たまの勝ちを求めてやめることができない賭け事といっしょです。これもまた、並のヒトでは抗うことが難しいところだと言えます。
だとしたら、そもそも見ないに限る。見るにしても、無防備にタイムラインを眺めるようことはしない。
わたし自身は、TweetDeckというアプリを使って、ツイートはできるだけ条件(投稿者、キーワードなど)をしぼってから目にするように気をつけています。
また、タイムラインに流れてくる情報のなかには、じぶんの「心をざわつかせる」ようなものも混じっているものです。
なにが「心をざわつかせる」のかは人それぞれでしょうから、あえて具体例を挙げることは避けますが。なんにせよ、見ないほうがよかった・見たくなかった、という情報はあるのではないでしょうか。
にもかかわらず、そのような情報を目にしてしまうと、気持ちが落ち着かず、目の前のことに集中できない… といったことが起こりえます。
というわけで。だいじな「時間」を奪われるという点では、有益な情報もおもしろい情報も「必須」ではない。心をざわつかせる情報は、もちろん「必須」ではない。
そう考えて、Twitterでの関わり方は減らした、元に戻した、ということになります。
まとめ
「成果」を重視してモノゴトに関わっていると、じぶんがほんとうにだいじにすべき「必須」のモノゴトとの関わりが薄くなる。ほんとうにだいじにすべきモノゴトがおろそかになるのでは?
Twitterとの関わり方を通じて、あらためて考えたことです。
「成果」自体は評価すべきものではあるけれど、その成果がじぶんにとって「必須」かどうか。いま関わっているモノゴトについて考えてみるのはいかがでしょうか。