がんばって YouTubeに動画を投稿をしたのに低評価… ツラいですよね。ガッカリもしますよね。
というわけで。YouTubeの低評価と向き合う3つの考え方について、お話をしていきます。
自画自賛のうえに自己満足のあぐらをかく男。
2020年4月から YouTubeをはじめて1年になりました。
そんなわたしが、YouTubeの「低評価」についてお話をしてみます。低評価と言えば、わりと最近、「YouTubeが低評価の数を非表示にする機能を試験中」とのニュースもありました。
その意図のなかには、「クリエイター(動画投稿者)の幸福を守るため」というものが含まれているようです。つまり、低評価の数を目にすることによって、クリエイターが苦しんでいる。だから、低評価の数を見えないようにしよう。そういうことです。
たしかに、動画を投稿する者からすると、「低評価」にはツラい思いがあるでしょう。がんばってつくったのに… とガッカリもするでしょう。えぇ、わたしもします。ただ、それだけでもないと思うんですよね。
ツラい、ガッカリするばかりではなく、得られるものだってあるはず。なにが得られるのか? 言うまでもなく「評価」です。第三者の評価。良かれ悪かれ、評価があるからこそ、じぶんの動画を見直す・改善するきっかけになるというものです。それが仮に「理不尽」な評価であったとしてもです。
わたしなんて、どちらかというと「自画自賛」なところがありますから(オモテには出さないところが始末におえない)。評価がないと、自画自賛のうえに自己満足のあぐらをかいてしまいそうです。
低評価は、みずから非表示の設定にすることもできますし、それもひとつの方法ではあります。けれども、わたしと同じように、自画自賛の傾向があるヒトなんかは、非表示にしないほうが「身のため」かもしれません。
そうは言っても、低評価はツラいんじゃ! という気持ちはわかります。なので、YouTubeの低評価と向き合うための考え方について、お話をしてみようかと思ったしだいです。具体的には、こちらの3点になります↓
- 低評価の反対はなにか?を問う
- 足らざる、をはかる
- さらされてナンボ!と胸を張る
これらは、実際にわたしが実践をしている考え方です。それではこのあと、順番に見ていきましょう。
YouTubeの低評価と向き合う3つの考え方
【考え方1】低評価の反対はなにか?を問う
YouTubeの低評価と向き合うための考え方、1つめ。それは、「低評価の反対はなにか?を問う」です。
というわけで、「低評価」の反対とはなにか? を考えてみましょう。低評価とは、文字どおり「低い評価」なのだから。その反対は「高評価」だろう。と、思われるかもしれません。だから、高評価がたくさんほしいんだーっ!となるかもしれません。わたしも、高評価はほしいです。
いやいや、そういうハナシじゃなくて。実は、低評価の反対が高評価だとは言い切れない。そういう話をしようとしています。
じゃあ、低評価の反対はなんなのか? その答えを見つけるために、評価軸の両端にある「低評価と高評価」の共通点について考えてみましょう。その共通点とは、「関心がある」ということです。
良くも悪くも関心があるから、その動画に対して評価をする。これが、低評価と高評価との共通点になります。この共通点をもとに、もういちど、低評価の反対を考えてみましょう。
すると、低評価の反対とは「関心を持たれないことだ」ということがわかりますよね。動画を投稿する者として、関心を持たれないのはキツいことです。ツラいことです。スルーされているようでツラい(実際にそうなのでしょうからなおツラい)。
であるならば、低評価バンザイです。低評価サンキューです。動画に関心をもって評価をしてもらえたのだと考えれば、もはや低評価は高評価とイコールだと言っても過言ではない! わたしは本気でそう思っています。
繰り返しになりますが、なにがツラいって、ほんとうにいちばんツライのは「無反応」であることです。だからわたしは、評価を非表示設定にもしていないし、コメント欄も非表示設定にもしていません。
YouTubeに動画を投稿する以上、できることなら多くのヒトに観てもらいたい。多くのヒトの役に立てる動画をつくりたい。それが YouTuberの思いでしょう。
多くのヒトの目に触れる、多くのヒトの役に立つには、投稿した動画に対する「関心度合い」は指標になります。だから、低評価も高評価もひっくるめて、評価は「視聴者の関心度合い」の指標だと考えてみるのはいかがでしょうか。
それができれば、低評価を「ただの悪い評価」とは思わずにすむはずです。
【考え方2】足らざる、をはかる
ものすごい数のチャンネル登録者数の YouTuberさんの動画を観ていて、気づいたことがあります。それは、必ず「一定数の低評価」がついているということです。
もちろん、ものすごい数の高評価もついているのですが、けっこうな数の低評価もついている。これって、いったいどういうことなんだろうか…? とフシギに思ったわけですね。
で、その YouTuberさんの「軸が明確だから」ではないのか。という結論に、行き着きました。つまり、その YouTuberさんのキャラクターなり、信念なりという「軸」がはっきりとしているから、それを好むヒトもいれば、好まないヒトもいるのではないか、と。
言い換えると、「しっかりトガッている」みたいな。尖る必要があるかどうか? という論点はありますが。尖っていなければ、あまたあるチャンネル・あまたある動画のなかで沈みゆくだけ… です。
こと YouTubeという世界にあっては「しっかりトガッている」かどうかは、重要な要素のひとつだと言えるのではないでしょうか。そう考えると、一定数の低評価がないのは「軸が不明確だから」とも言えそうだ。足らざる状態にある、と言えるのではないか。
というわけで。低評価がまったく無い、あるいは少なすぎるのであれば、それはそれで問題がある。と、わたしは考えることにしています。じゃあ、はたしてじぶんはトガッているのかどうなのか。高評価もありつつ、一定数の低評価がついているかどうか。
ちなみに、わたしの場合、高評価に対する低評価の割合は 5%弱といったところです。一定数というには弱い… 少ない… まだまだ軸が不明確、足らざる状態にあるものと認識しています。
もっとも、高評価の数自体もそれほど多くはありませんから。低評価の数も「追い風参考」といったところではありますが。低評価・高評価ふくめて評価の数自体が少ないとなれば、【考え方1】のとおり、視聴者の関心を得られていない、ということでもあるわけで。いっそうの精進が必要です。
【考え方3】さらされてナンボ!と胸を張る
冒頭、こんな話をしました。「評価があるからこそ、じぶんの動画を見直す・改善するきっかけになる」という話です。
いっぽうで、【考え方1】では、「低評価は高評価とイコールだ」というお話もしましたが。低評価は低評価です。なにかしら「悪いところ」があっての低評価であることは、真摯に受け止めねばなりません。
そういう意味で、低評価は「見直し・改善」のきっかけになります。また、低評価が「足らざる、をはかる」指標にもなることは、【考え方2】でお話をしました。
ところが、です。低評価のなかには「いわれなき誹謗・中傷」が存在する、というのが現実でもあります。そこに「悪意」があるのだとすれば、当然、許されることではありません。評価は評価のツールであって、悪意に加担するツールではないからです。
と、そんなの言うまでもないことなのに言ったのは。言ったところで、ゼロになるものでもないからです。悪意がゼロになったらいいなぁ、とは思うけれど。そうカンタンにゼロにはならないでしょう。だからこそ、YouTubeも低評価の非表示をテストしているわけですし。
じゃあ、どうするか。さらされてナンボ!だと、胸を張ること。YouTuberたる者、世間にさらされてナンボ! だと胸を張ることです。
そんなのオマエがたいして観られもしないチャンネルだから、低評価の数だって少ないから言えるんだろう。と、言われるのかもしれませんが。みんな、そこから始まるんです。だれにも観られないところから始まるんです。
だからと言って、みんながみんな、いずれは有名YouTuberになれるというわけでもないけれど。それでも、もっとたくさんのヒトに観られるように、もっとたくさんのヒトの役に立てるように、と動画を投稿している。そこは、無名YouTuberだろうと有名YouTuberだろうと変わりませんよね。
ですから、観られていない・観られているといった「差」は気にせず、胸を張ればいい。と、わたしは考えています。
低評価には、ある種のツラさがともなうのはたしかです。それでも、世の中に向けて動画を放つ以上、さらされることに対して「覚悟」を持つ。ツラくても負けない「強くてしなやかな心(いわゆるレジリエンス)」を育てる。
その「覚悟」や「強くてしなやかな心」は、間違いなく、YouTube以外の場面でもじぶんのチカラになります。低評価は、そんなじぶんを育てる「栄養」だと考えてみるのはどうでしょうか。
まとめ
がんばって YouTubeに動画を投稿をしたのに低評価… ツラいですよね。ガッカリもしますよね。
けれども、評価があるからこそ、じぶんの動画を見直す・改善するきっかけになるものです。というわけで、YouTubeの低評価と向き合うために、じぶんなりの「考え方」を持っておくとよいでしょう。本記事が、その参考になるようでしたら幸いです。
- 低評価の反対はなにか?を問う
- 足らざる、をはかる
- さらされてナンボ!と胸を張る