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『ムダな努力』を否定しない。そのためにどう考えるか?

『ムダな努力』を否定しないためにどう考えるか?

ちまたで見聞きする、「ムダな努力はやめておけ」というハナシ。

もっともらしいハナシではあるけれど。それでも、ムダな努力を否定しない。否定しないための考え方についてお話をしてみます。

目次

ムダ、上等。

こんなハナシを、わりとよく見聞きします。それは、「間違った方向の努力はやめたほうがいい」みたいなハナシです。つまり、ムダな努力はやめておけよ、と。

なんだか「もっともらしい」ハナシではあるし、事実、そうなのかもしれないけれど。いまのわたしは、「ムダな努力」の推奨派です。そんな「派」があるのかどうかはともかく、ムダな努力は上等。なんなら、「絶賛、ムダな努力中!」の身でもあります。

あまり「ムダ」を嫌っていると、けっこう危ういことになるのではないか? との経験則もあるわけで。ムダな努力を否定しない、否定しないための考え方について。少しお話ししてみようかと思います。具体的にはこちらです↓

「ムダな努力」を否定しないための考え方
  • 後付けだから
  • やらない言い訳になるから
  • そして、努力は報われるから

それではこのあと、順番に見ていきましょう。

「ムダな努力」を否定しないための考え方

後付けだから

ムダな努力、の「ムダ」について。それは多くの場合(すべて、とは言いませんが)、「結果論」ではないのか? と思うのですがどうでしょう。

なんだかんだと努力をしてみた結果、「あ〜、これってムダだったなぁ」とか、「ちょっと方向性が間違ってたかもなぁ」とか。それは、あとから振り返ってみてわかることなのではないのか? と思うわけです。

ところが、わたしたちときたら(わたしとあなたとを、ひとくくりにしてすみません)、「後付け(あとづけ)」がとっても得意、ときています。人間とは、どうやらそういうものらしいです。

あたかも、はじめからムダな努力など排除していたかのごとく考えてしまう。なにかに成功したり、なにかの成果をあげることができたのは、「正しい努力」をしてきたからだ。そう考えてしまうところがあります。

でも、実際には、「正しい努力」の影に、数え切れないほどの「ムダな努力」があったりするものではないでしょうか。ムダな努力を積み重ねるなかで、ようやく「正しい努力」のあり方を理解した、とも言えるでしょう。

にもかかわらず。はじめっから、キレイに正しい努力をしてきたように考えてしまう。そもそものはじめから、ムダな努力なんてなかったかのように後付けしてしまう。そして、「ムダな努力はやめよう」というハナシをしたりします。

これを聞いた人は、「やっぱり、正しい努力がだいじなんだな。うんうん」と感じますよね。わたしも、そう感じます。

ですが、多くの場合(すべて、とは言いませんが)、ムダな努力の先に正しい努力があって。その結果、成功や成果につながった、と考えておいたほうがいいでしょう。

なぜ? あまり、ものごとをスマートに考えすぎると、「努力を怠る」ことになりかねないからです。というのが、次のお話になります。

やらない言い訳になるから

ある成功や、ある成果について。そこに「ムダな努力」はなく、そもそものはじめから「正しい努力」の結果です。と言えるのであれば、だれも苦労はしていません。

もちろん、そういうこと(正しい努力だけで成功・成果につなげる)ができる人もいるのでしょうけど。割合としては小さなものであり、理想論にも近いものだと思われます。

なので現実的には、ムダな努力を積み重ねるなかで、ようやく「正しい努力」のあり方を理解する。というのは、さきほどもお話をしたとおりです。

それでも、「ムダな努力はやめよう」という理想論に引っ張られすぎると。やらない言い訳になりかねない。努力をしないことに対する言い訳になりかねない。という、危うさがあります。

なにかチャレンジをはじめるにあたって、「もっとよく考えてから」とか、「もっと時機を見てから」とか。「間違ったほうに向かって努力をはじめるとムダになるから」と理由をつけて、努力そのものを放棄したり、保留したりしてしまう。

かつてのわたしが、そうでした。かつてどころかいまもまた、油断をすると、そのように考えてしまうところがあります。危うさ満点です。

失敗の反対は成功ではなく、挑戦しないことだ。という、話があります。ムダな努力を失敗ととらえて、挑戦をためらっていると、なにも遂げることができません。

むしろ「ムダな努力こそが挑戦」くらいにとらえて、ムダも織り込み済みで努力をはじめることがだいじなのではないか。と、考えています。

そんなわけで。昔に比べると、ものごとへのチャレンジは速くなったように思います。もともと保守的思考がつよく、ものごとはじっくり慎重にとりくむタイプですが、見切り発車の要素も身についてきました。

見切り発車が良いのか悪いのか、という議論はありますが。少なくとも、チャレンジをしなくなるよりはいいだろう、との考えです。

というわけで。ムダな努力を否定しているじぶんに気づいたら、「それって、やらない言い訳にしているだけじゃないのか?」と、いちどは自問してみることをおすすめします。

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そして、努力は報われるから

あまり自慢にはなりませんが。わたしは、けっこうムダな努力をしてきたし、いまもしていると思っています。

これが正しい努力なのか、まったく確信はもてないけれど。努力はしている、続けている。みたいなことは、ひとつやふたつではありません。

ふりかえれば、このブログもそうでした。右も左もわからないところからブログをはじめて、来る日も来る日もとにかく每日ブログを書き続け、きょうまで 1,723日。

途中、「これは間違った努力、ムダな努力なのではないか?」と考えたことは数しれず。けれども、そのブログのおかげで、いろいろな成功・成果がありました。

どんな「いろいろ」があったのか? は、場をあらためるとして。とにかく、ブログなくしていまは無し! とは言える状態です。つまり、ムダな努力だとしても報われるんだ、ということです。

とはいえ。ほんとうにムダな努力だったのか? ほんとうにムダな努力ばかりをしてきたのか? と言えば。そんなことはないでしょう。

繰り返しになりますが。ムダな努力を積み重ねるなかで、「正しい努力」のあり方を理解した。その結果、成功や成果につながった。ですから、ムダな努力のなかにも「正しい努力」はあったはず。

だから、なにかをはじめるにあたっては、必要以上に「ムダ」を意識しなくていいのではないか? というのが、わたしの考えです。

どんなに間違えたほうに向かってはじめた努力でも、それを続けることができれば、正しいほうに向かって、おのずと軌道修正されていく。努力が報われるとはそういうものだ、と思うのですがどうでしょうね。

実際、ブログばかりではなく、ムダな努力をしながら成功・成果につながったものはいくつもあります。たとえば、YouTube投稿、セミナー開催、ランニング、読書、時間管理などなど。

もちろん、努力をしたからといって、必ずしも成功・成果につながるわけではありません。なかには、人知れずあきらめたものたちもあります。けれども、それとて「すべてムダ」だったとは言い切れず。

チャレンジ精神をはぐくみ、次にはじめる努力の糧にはなるものです。そう考えると、ムダな努力などないし、ムダな努力を否定するものでもないでしょう。

まとめ

ちまたで見聞きする、「ムダな努力はやめておけ」というハナシ。

もっともらしいハナシではあるけれど。それでも、ムダな努力を否定しない。否定しなための考え方についてお話をしてみました。なにかの気づき、きっかけになるようでしたら幸いです。

「ムダな努力」を否定しないための考え方
  • 後付けだから
  • やらない言い訳になるから
  • そして、努力は報われるから
『ムダな努力』を否定しないためにどう考えるか?

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