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ブログの毎日更新を2,500日をひと言であらわすとどうなるか?

ブログの毎日更新を2,500日をひと言であらわすとどうなるか?

ブログの毎日更新を続けて 2,500日。ということで、それだけブログを続けるとどうなのか? それをひと言であらわすとどうなるか? について。いちブロガーの「一例」としてお話をします。

目次

実はまだ、2,500日を迎えてはいない。

2016年4月からブログの毎日更新をはじめて、もうすぐ 2,500日になります(あと 10日弱)。って、まだなんかい! と、おもわれるかもしれませんが。

実際に、2,500日めを迎えた当日は、ややもすると気恥ずかしくてスルーをしそうなところもあるので、「あえて」の早めで書いてみることにしました。

人生なにが起きるかわかりませんので、実際に 2,500日めまで毎日更新できるかもわかりませんが、まぁできるだろうという前提です。

で、2,500日。言葉にすると「あっさり」としたものですが、けして短い年月というわけでもなく。いろいろあったんですよー、もータイヘンなんだからね、というのが本音ではあります。

が、それでもなお、たったひと言で振り返るのであれば、「僕は武器を手に入れた」ということでしょうか。もちろん、この先もブログを書き続けていけば、そのひと言が変わることはあるかもしれません。

でも、いまこのときにおいては「僕は武器を手に入れた」、そういうことです。武器だなんて、ずいぶんと物騒なことを言うじゃないの、とおもわれるかもしれませんので。

そのあたりについて、このあとお話をしてみようかとおもいます。おおむね「じぶん語り」ではありますが、「ブログを続けていると、こんなこともあるよ」という一例は示せるものとおもいます。

それではいってみましょう。

僕が手に入れた武器の話をしよう。

武器、とはいったいどういうことなのか。武器というと、きわめて攻撃的なイメージがあるかもですが。ここで言う武器には「他人を叩き伏せる」という意味合いはありません。

わたしにとっては、「この世界を生き抜くため」の武器であり、いうなれば「守備的な武器」だと言ってよいでしょう。

この世界を生き抜くだなんて、また大げさな… と、おもわれるかもしれません。ですが、実際にこの世界を生きるのもラクではないことを、みながわかっているはずです。

生きていれば、いろいろなことを考えなければいけない、好きなことだけをしていればいいわけでもない、ツラいことや悲しいこと、腹が立つことだってある。

それでもくじけずに、この世界を生き抜くためには「武器」があったほうがよい。そうはおもいませんか? わたしはおもいます(別に、強要しているわけではありません)。

では、ブログの毎日更新によって手に入れた武器が、わたしにとって、具体的にどう役に立っているのか? おもなところを3つほど、お話ししてみます。

じぶんを伝えられる

ずいぶんと直截的なハナシではありますが、生きていくには仕事をしなければならず(よほどの財産持ちは別として)、「仕事をとってくる」ことが求められます。

これは、会社勤めをするにしても、独立して事業をするにしても同じでしょう。会社勤めをするためには、まず職に就かねばなりません。職(≒ 仕事)をとってくる必要があります。

独立すれば、仕事そのものをとってこなければなりません。会社勤めであれば、日々の仕事は見つけてくれると考えると、独立して仕事をとってくるほうが「難易度は高い」と言えるでしょう。

それはそれとして。仕事をとってくるためには、「じぶんを伝えられる」かどうかが重要になります。じぶんを伝えられなければ、会社に雇ってもらえませんし、事業で仕事をいただくこともできません。

では、じぶんを伝えるにはどうするか? わたしにとっては、ブログがその役割を果たしてくれるようになりました。時間はかかりましたが、ブログがきっかけで仕事をいただけるようになったわけです。

来る日も来る日もブログを書き続ければ、「じぶんはどんな仕事ができるのか、じぶんはどんな人なのか」といったことを、世の中に伝えられるようにもなります。ていどの差こそあれ。

また、ブログから派生して、セミナーを開催したり、YouTubeをはじめたり、Kindle本を書いてみたりで、さらにじぶんを伝えられるようにもなりました。

あくまで、ブログから派生したものであり、ブログを書いていなければ始めていないであろうことであり、ここでもまたブログが武器になったのだと考えています。

「書く」という行為が持つチカラの大きさを実感するところです。

じぶんを認めてもらえる

などと言うと、承認欲求のカタマリかのように聞こえるかもですが。まぁ、あまり否定もできません。やっぱり、じぶんを認めてもらえるというのは嬉しいものです。

それが、生きるチカラになることも否定はできません。もっとも、「承認欲求」は人間の遺伝子にきざまれているものでもありますから、しかたのないことだとも言えるでしょう。

人間ひとりのチカラは限られていて、だからこそ、人間はこれまで群れをなし、社会を築いてきました。承認欲求は、その群れや社会に受け入れられるための「動機」として機能するものです。

えっ、何のハナシ? と、おもわれているかもしれませんが。生きる動機としての承認欲求は大事だよ、というお話をしています(いっぽうで、承認欲求そのものが「目的」になるのはNG)。

では、承認欲求を満たすにはどうするか。じぶんを認めてもらえるかどうか、が1つのカギになります。そのうえで、じぶんを認めてもらう方法はいろいろです。

わたしにとっては、「文章」でした。これまでブログを起点にして、いろいろと文章を書き続けてきましたが、ときには「いいね」と言ってくれる方々がいます。これは、嬉しいことです。

その「いいね」ということをきっかけに仕事をいただけたり、ときには他の方にも紹介をしていただけたり。そしてまた、別の方からも「いいね」と言っていたけるのは、やはり嬉しいことです。

誰かに喜ばれることをしたい、人に喜ばれる仕事がしたい。とも考えていますから、「じぶんを認めてもらえる」かどうかは、そのモノサシにもなるものです。

ちなみに、文章が必ずしも武器になるというハナシではありません。わたしの場合には、文章を書くのが好きだし、それがたまたま武器にもなったという話です。

お伝えしたいのは、文章が武器に「なりうる」ということ。ブログを書き続けることが武器に「なりうる」ということです。

じぶんの心を守れる

って、どういうこと? とおもわれるかもしれません。これに関連して、村上春樹さんがこんなことを書いています↓

結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。 

風の歌を聴け / 村上春樹さん

ささやかな試みに過ぎない、とはいうものの。文章を書くことが、自己療養へとつながることはあるわけですね。

なので、自己療養を「じぶんの心を守れる」と同義のものと考えるのであれば、文章を書くことが「じぶんの心を守れる」ことにつながることだってあるでしょう。

事実、じぶんも日々ブログを書き続けることで、心の平静さを保っているものと実感しています

毎日、習慣として文章を書くというのは「座禅」や「瞑想」のようなものです。たとえ、そのときにじぶんがどのような精神状態にあったとしても、「他人」に向けて文章を書くことになります。

他人に向けて文章を書く以上、わたしは平静でなければなりません。悲しみに任せて筆を振るったり、怒りに任せて書きなぐるわけにもいかないので(多少であればよいかもですが)。

そうこうして、ブログを書き続けているうちに、ブログを書くときには平静であるじぶんに気がつくようになりました。おかげで、負の感情に執着せずに済んでいる、とも言えます。

負の感情に執着すれば心は傷みますから、ブログを書くことで、わたしはじぶんの心を守れてもいるわけですね。

というように、文章が持つチカラを知っているわたしは、人知れず、感情に任せて書きまくることはあります(いわゆるエクスプレッシブライティング)。誰にも見せない文章ではありますが、思いを言葉にすることで解決する問題はあるものです。

じぶんの心を守りやすくなったことで、だいぶ防御力が上がったものと実感をしています。

まとめ

ブログの毎日更新を続けて 2,500日。ということで、それだけブログを続けるとどうなのか? それをひと言であらわすとどうなるか? について。いちブロガーの「一例」としてお話をしました。

ブログをはじめようとおもっている人や、はじめたばかりの人、あるいは、ブログを続けているけれど辛さがある人などのご参考になる話であれば幸いです。

ブログの毎日更新を2,500日をひと言であらわすとどうなるか?

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