わりと長いこと、ブログや SNSにいろいろと書き続けているわたしではありますが。それでもなお、書かないようにしていることもあるわけで。そのことについて、まとめてみます。
まずは、意志が重要だ。
こうして、日々、ブログをとおして毎日発信をしています。また、SNS(おもにはTwitter)でも発信をしています。かれこれ 2,500日以上は続けているので、いろいろと発信してきました。
が、それでもなお、それらのブログや SNSについて、書かないようにしていることはあります。もう少し付け加えるなら、以前は書いていたけど、いまは書かないようにしていることもあるわけで。
具体的には、次のとおりです↓
- 前提のない断定的意見
- 根拠や例示がない主張
- 特定できる個人の攻撃
- 余白のない否定や非難
- 単なるグチや弱音のみ
もっとも、もしかしたら書いてしまっていることがあるかもしれません。書かないようにしている、つもりではあっても、気づかぬうちに書いてしまっているかもしれない。
とはいえ、まずは「書かないようにする」という意志が重要なのであり、その意志をここにまとめてみようかとおもいます。
わたしと同じように、ブログや SNSで発信を続ける人たちにとっては、共通見解として役立つものもあれば、じぶんとの違いにあらためて気づくきっかけにもなるはず、ということで。
ブログやSNSには書かないようにしていること
前提のない断定的意見
ここで言う「断定的意見」とは、「〜すべき」や「〜しなければいけない」といった表現です。ちまたのブログや SNSにおいても、しばしば見られる表現といってよいでしょう。
とはいえ、断定的意見そのものを否定するわけではなく。おおやけに発信をする以上、断定的に意見することも必要であり、というかむしろ、それが自然でもあります。意見があるから発信をしよう、と考えるものでしょうから。
ご多分に漏れず、わたしもまた意見は書きますが、そのときに気をつけているのが「前提」です。「〜すべき」なのは、どういう場面・どういう状況における意見なのか? ということです。
この点で、前提のない断定的意見には、チカラがありません。言うまでもなく、前提が変われば状況は変わるから、ですね。あらゆる場面・あらゆる状況において断定できるなどということは、そうそうないものでしょう。だから、前提について考えるようにしています。
根拠や例示がない主張
「〜だとおもいます」や「〜と考えます」といった主張があります。主張とは、いうなれば、じぶんの思いであり、その思いを伝えることは書く動機にもなるものです。
なので、主張もまた、主張そのものに問題があるわけではありません。問題があるとすれば、「根拠」や「例示」がない主張です。根拠とは、主張に対する「なぜなら」であり、例示とは、主張における「たとえば」にあたります。
ところが、ちまたの主張には「根拠」や「例示」が記されていない主張は、けして少なくありません。するとどうなるか? 当然、主張にチカラはなくなります。説得力がなく、納得感に欠けることになります。
でも、ついついやってしまうのですよね、気をつけないと。だから、わたしは意識的かつ積極的に、「なぜなら」や「たとえば」を書き添えるように気をつけています。
特定できる個人の攻撃
ブログにしても SNSにしても、発信を通じて他人を攻撃しているケースを見かけます。攻撃のていど加減は大小あるにせよ、だれかがだれかを攻撃している光景はあるあるです。
攻撃も意見や主張のうち、という考え方もあるでしょう。それでも、わたしは「特定できる個人」に対しての攻撃はしないようにしています。ポイントは「特定できるかどうか」です。
多くの場合、意見や主張をするのに「特定できる個人の攻撃」は必要ないものであり、にもかかわらず攻撃をすれば、返り討ちにあったり、不毛な水掛け論におちいることもあるでしょう。
さらにいえば、そもそも「攻撃(だれかを責める)」自体が不要です。意見や主張をしたいのであれば、意見や主張そのものを書けばよいわけで。じぶんの意見や主張を正当化するために、だれかを引き合いにする必要はないでしょう。
などと言いながら、わたしもまた「攻撃する人」を責めているのですから、この主張や意見には自己矛盾があることは承知しています。少なくとも「特定できる個人の攻撃」はやめましょう。
余白のない否定や非難
おおやけに向かってなにかを書く、というのであれば。否定や非難を避けてとおることはできません。「〜するのはよくない」とか「〜するのはダメだ」とか。
それらの否定や非難について、わたしが気をつけているのは「余白」です。つまりは、反論の余地を残すこと、ほかの意見を受け入れる余地を残すこと。
極論、考え方は人それぞれです。みんな違ってみんないい。だから、わたしはわたしで自由に書かせてもらうし、それを読む人もまた自由な考え方を持てばいい。わたしが書く「否定」や「非難」は、読む人があらためて考えるきっかけになれば、との思いです。
なので、わたしが書いたものを見て、「そんなのおかしい。じぶんはそうはおもわない。じぶんは、〜だとおもう!」みたいなことを考えてもらえるのであれば、発信者冥利に尽きるというものです。
単なるグチや弱音のみ
グチや弱音を吐露する、というのも書く動機になるでしょう。わたしも、書いたことがありますし。いまでも書いていることはあります。ただ、それが単なるグチや弱音に終始することがないように、とは気をつけているところです。
とくに説明するまでもないでしょうが、単なるグチや弱音となると、読む人の気分を下げてしまいます。読んでいるこっちまで参ってくるわ… というハナシはあるものです。
わたしは、映画やドラマ、アニメなどでも、いわゆる「鬱展開」が苦手であり、それは、観たあとにじぶんが鬱を引っ張ってしまうからでもあります。似たように、わたしが書く文章で、だれかに鬱を与えるようなことはしたくない。
だから、単なるグチや弱音は書かない、と決めています。それでも書くのであれば、その先に、希望や教訓があるときです。
まとめ
わりと長いこと、ブログや SNSにいろいろと書き続けているわたしではありますが。それでもなお、書かないようにしていることもあるわけで。そのことについて、まとめてみました。
わたしと同じように、ブログや SNSで発信を続ける人たちにとっては、共通見解として役立つものもあれば、じぶんとの違いにあらためて気づくきっかけにもなるはず、と願っています。
- 前提のない断定的意見
- 根拠や例示がない主張
- 特定できる個人の攻撃
- 余白のない否定や非難
- 単なるグチや弱音のみ