本当に強い人間などいるのだろうか?そういないのではないか、とおもっています。そのうえで、少しでも強くあろうとは考えるし、そのためには、じぶんに立ち返る時間が必要だという話です。
完璧に強い人間はそういない
「強い人間になりたい」といったハナシがあります。「強い人間」などという、ひどく抽象的なハナシではあるものの。弱いよりは強くなりたい、と考えるものでしょう。
とはいえ、僕が知る限り、完璧に強い人間はそういません。強そうに見える人はたくさんいますが、それは「一面」であって、いっぽうで弱い一面もあわせもっている。これが僕の見方です。
では、弱い一面とはどういう状態をいうのか?
じぶんではなく、「他人の軸」で生きている。たとえば、他人の成功を見て焦りを感じるとか、他人の幸福を知り、じぶんの不幸がツラくなるとか。
ていどの差こそあれ、そういう経験がいちどくらいはあるのが「ふつうのヒト」だと、僕はおもっています。まぁ、僕が勝手におもっているだけなので、反論は聞く耳を持ちません。
それはそれとして、弱い一面がありつつも、少しでも強くありたいと願う。強くあろうと努めるのが強い人間だ、と僕は考えています。
強い一面しかもたない人間などそういない。でも、強くあろうと努めることならばできるはず。そんな感じです。では、強くあろうとするためにはどうするか?
ひとことでいえば、じぶんに立ち返る時間をつくること。つまり、「他人の軸」にブレてしまった状態から「じぶんの軸」に戻すための時間をつくることが大切だ、と。そうおもうのですね。
では、具体的にどのような時間をもてばよいのか。僕が実際に取り入れているものを、このあと、5つほど挙げてみます。
強くあろうとするために、じぶんに立ち返る時間
瞑想
毎日、10分の瞑想を取り入れています。僕が考える瞑想とは、「執着を手放すこと」です。人間である以上、多かれ少なかれ、何かしらに執着してしまうものでしょう。
その執着に気づき、瞑想中のわずかな時間であったとしても、そこから離れることで、反芻思考を止めることが可能です。考えてもしかたのないことをずーっと考える…反芻思考はよくありません。
瞑想というと、「無」になることをイメージするかもですが。僕は、無になどなれません(笑)いろいろなことが、アタマに思い浮かんできます。そのたびに、呼吸に意識を集中することで、いったん離れる…ということを繰り返すのですね。
そのような瞑想を続けていると、執着や反芻思考から離れるチカラが鍛えられるのを実感しています。他人の軸でものごとを考えてしまっているときでも、ふと我に返ることができる。それが、瞑想の時間であったりします。
運動
よくいわれていることではありますが、運動には瞑想に近い効果があります。運動に集中する(というか、意識を持っていかれる)ことで、やはり、執着や反芻思考から離れることが可能です。
そんなわけで、気持ちが乱れているときほど走ったりもしています。数ある運動のなかでも、とりわけ、日常的な運動として継続しているのが「走る」です。
走りおえたあとには、疲労やら爽快感やらで、否が応でも意識がじぶんに向きます。これもある意味、じぶんに立ち返るということでしょう。疲労も爽快感も、「じぶんごと」なのです。
すると、他人の軸で生きるなど、なんともったいないことか!という気分にもなりますね。走る以外にも、散歩でもいいでしょうし、筋トレもおすすめです。
結局のところ、じぶんで、じぶんのために何かをする、という行為が大切になります。ところが、弱っているときには、他人によって、他人のために何かをさせられているものです。
メモ書き
毎朝、メモ書きの時間をとっています。僕の場合、紙とペンではなく、iPadにApple Pencilですけど。いずれにせよ、メモ書きをしています。で、ここでいうメモ書きとはなんなのか。
アタマのなかで考えていることを、すべて文字にしてみる、ということです。すべて、です。考えるスピードは速いものなので、なぐり書きをするような感じになります。
でも、別にかまいません。だれに見せるでもないですし、じぶんでさえ、ていねいに見返すようなものでもないですし。要は、いま何を考えているかを確認するための行為です。
別に書き出さずともわかる、とおもわれるかもですが。実は、じぶんですら、じぶんの考えは把握できていないものだったりします。実際、メモ書きしてみると、「あぁ、僕はこんなことを考えてたのかぁ」なんてこともあるほどです。
なので、悩んでいること、ツラいことなども含めて、いま気になっていることは、どんどんメモ書きしてみるとよいでしょう。じぶんの軸を見つめるきっかけにすることができるはずです。
読書
僕には、読書の習慣があります。本が好きだから読む、ということもありますが。それとは別に、じぶんに立ち返るための時間としても考えています。
本は、いうなれば「著者の軸」で書かれているものであり、「他人の軸」です。その他人の軸を感じながら、じぶんはどう考えるだろう(じぶんの軸はどうだろう)と考える。その時間が、有意義なのではないかとおもうのですね。
読書は、「じぶんのペース」が許されるところに良さがあります。ゆっくり考えたければ、ゆっくり読めばよいし、これ以上は聞きたくないとおもえば、読むのをやめたっていい。自由です。
じぶんの軸だけに閉じこもるのもイマイチなので、ときには、他人の軸にもふれたほうがいいだろうとはおもいます。そんなときに、自由度が高い読書は、取り入れやすい手段といえるでしょう。
いっぽうで、SNSで他人の投稿などを見ていると、浴びるように大量の思考が流れ込んでくることになりますし、本を読むのをやめるほど、SNSの閲覧をやめることはカンタンではありません。
SNSには、人を執着させるしくみ、他人の軸に執着させるしくみがあるからです。
発信
僕はこうして、日々、発信をしています。ブログやメルマガ、YouTubeなど。それら発信をすることが、じぶんに立ち返る時間になっていることも実感しています。
発信をするときには、じぶんの考えをまとめるのですから、当然といえば当然です。これに対して、他人の発信を受け取るばかりだと、他人の軸に依りがちになってもおかしくないでしょう。
気がつけば、他人の軸がじぶんの軸であるかのように勘違いをしている…なんてこともありえます。それは他人の軸を生きるということでもあるため、よろしくないとおもうのです。
もっとも、発信をしていても、他人の軸に流されることはあります(僕の場合は)。ただ、発信を通じてカタチにする過程で、あらためて、じぶんの考えを見直すことができるのは間違いありません。
ブログであれば、文字にすることで、その文字をじぶんが目にすることで、じぶんを客観視する機会がえられる、ということです。なので、少しでも強くあろうとするのなら、発信とその継続をおすすめします。
まとめ
本当に強い人間などいるのだろうか?そういないのではないか、とおもっています。そのうえで、少しでも強くあろうとは考えるし、そのためには、じぶんに立ち返る時間が必要だ。
と、そんなお話をしました。あなたにとって、じぶんに立ち返る時間とは?を考えるきっかけになるようであれば幸いです。