ヒトが他人との関わりのなかで生きていく以上、他人からの評価は不可避です。というわけで、他人からの評価に打ちのめされたときにどうするか? についてお話をしていきます。
ひとり仕事は、直接評価にさらされる。
他人からの評価に打ちのめされた… ってことはありませんか? 「打ちのめされた」のていど加減はいろいろでしょうが。他人からの評価を受けて、「なんか傷ついた」「なんかツラい」といったことがあるかどうか。
本来は、「他人は他人、じぶんはじぶん」と割り切って考えられるのがいちばんです。とはいえ、それはクチで言うほどカンタンなことじゃあない。だから、他人からの評価に打ちのめされることだってあるだろう。はい、もちろん、わたしもあります。
2016年に独立して以来、ひとりで仕事をしていることもあり。あらゆる仕事はすべて、じぶん個人に対する評価に直結するようになりました。また、このブログをはじめ、さまざまな発信をしていることで、評価にさらされやすい環境にあるともいえるでしょう。
という、わたしの事情は、それはそれとして。ヒトが他人との関わりのなかで生きていく以上、他人からの評価は不可避でもあります。
そこで、本記事では、他人からの評価に打ちのめされたときにどうするか? について、わたしが実際に考えていること、実践していることをお話ししてみます。具体的にはこちらです ↓
- 一石投じることができた
- 評価がないほうが問題
- 言語化できるチャンス
- 楽しめたらOK
- 受け手しだい
これらについて、このあと確認をしていきましょう。あぁ、評価に打ちのめされたなぁ… というときに、おもいだしていただけるようであれば幸いです。
他人からの評価に打ちのめされたときにどうするか?
一石投じることができた
ふしぎなもので、よくない評価を受けたときには、いっぽうで、よい評価を受けることがあります。たとえば、YouTube。わたしは、毎週1本の動画を投稿しています。
その動画に対しては、残念ながら「低評価」をいただくことはあるわけですが。低評価が多い動画は、いっぽうで「高評価」も多い、という傾向があったりします。
そんなときに、わたしが考えるのは「一石投じることができたかも」です。わたしが動画内で話している内容は、万人に正解といえるものではありません。あたりまえと言えばあたりまえですが、ひとつの考え方を示しているにすぎません。
なので、ある視聴者は「納得、納得(高評価)」と感じても、ある視聴者は「こんなのおかしいぞ(低評価)」と感じることはあるでしょう。この両者の「差」が鮮明(高評価も低評価も多い)であったのは、じぶんが示した考えの「軸」もまた鮮明だったからではないのか?
だとしたら、「軸」の表現は発信の価値のひとつでもあるし、加えて、いずれの視聴者にとっても「考えるきっかけ」になったのであれば、「一石を投じることができた」とも言えるはず。などと、解釈をしてみるのはいかがでしょうか。
評価がないほうが問題
いましがた話をしたこととも関連しますが。他人からの評価がよくないものであったとしても、評価が無いよりはマシだという捉え方もあるでしょう。よくも悪くもない、というか、興味を持たれていないということだとすれば、むしろ、そちらのほうが問題だ… という捉え方です。
正直なところ、わたしは日々発信をしているなかで、しばしば「評価が無い状況」に遭遇しています。日々発信をしているのですから、評価があるときもあれば、評価が無いときもあるのはしかたがないとしても。ちょっと、評価が無い(あるいは少ない)状況が多いかもしれない…
それはそれとして、「評価が無いほうが問題だ(低評価を受けるよりも)」というのは、わたしの考え方です。そのうえで、よくない評価を受けたときには「評価がないほうが問題なのだから、むしろ、よかったじゃないか」とも考えるようにしています。
言語化できるチャンス
他人から評価を受けるときには必ず、「言葉(文字)」として評価を受けとることになります。よい評価にしても、よくない評価にしても、そこは変わりません。
というように、評価を「言葉」として受け取ることには、大きなメリットがあります。それは、「言語化できる」というメリットです。たとえば、じぶんの「長所」や「短所」について。じぶんではうまく言葉にできなかったことを、他人が「明瞭に表現」してくれることはあるでしょう。
もっとも、短所をズバッと言われるのはツラいことかもしれませんが。それでも、短所を直したり、気をつけたりできる、なにより、短所を明確に把握できるのは、大きなメリットだと考えています。
そもそも、短所のように、じぶんのよくないところに対して、じぶん自身は目をつぶるというのはありがちですし。また、じぶんがおもう短所と、他人から見た短所とが相違する可能性もあります。
いわゆる「ジョハリの窓」でいうところの、「盲点の窓」です。じぶんは気づいていないけれど、他人は気づいているじぶん、が「盲点の窓」にあたります。それをどう扱うかはともかく、盲点のままにしておくのもよくありませんので。
ですから、他人からよくない評価をもらったときには、じぶんの「短所」や「盲点の窓」を言語化できるチャンスと捉えてみるのもよいのではないでしょうか。
楽しめたらOK
他人からの評価に打ちのめされそうになったとき、わたしがじぶんに「問う言葉」があります。それは、「楽しめたかどうか?」です。たとえ、他人からどのような評価にさらされようとも、じぶん自身が楽しめたのならそれでよし、と考えています。
評価の対象によっては、若干無責任な感じはあるかもしれませんが。当然、その時点での全力・最善は尽くしたとの前提はあります。そのうえで、よくない評価であったとしても… というハナシです。
なにはともあれ、じぶんの人生はじぶん自身のもの。他人の人生を生きるな、じぶんの人生を生きろ! 人生の主役はじぶんだ! みたいな言葉もありますよね。実現できるかどうかはさておき、本質としてはそのとおりでしょう。
だとすれば、「他人からどう見られたいか」よりも、「じぶんがどうありたいか」です。わたしは、そう考えています。「じぶんが楽しめたらOK」という考え方です。
他人からの評価に依りすぎず(まったくだいじでない、などとはおもいませんが)、じぶん本位に考えることも大切なのではないでしょうか。
受け手しだい
言うまでもないことですが、世の中にはたくさんの人がいます。そして、人の数だけ違った考え方がある、と考えてよいでしょう。ある特定の対象・場面において、考え方が一致することはあっても、すべてにおいて考え方が同じだという他人はいないはずです。
結果として、じぶんの言動が他人にどう受け取られるかは、「受け手しだい」だと言えます。同じことを言っても、Aさんからはよい評価を受け、Bさんからはよくない評価を受ける。というのは、当然にありえますよね。
だとしたら、「受け手しだい」の評価を気にしすぎてもしかたがありません。他人はコントロール不可能なものでもありますから、そもそも他人の評価は、じぶんの手には負えないものだとの理解をしておくのがよいでしょう。
にもかかわらず、「どうしたら評価をよくできるだろうか?」と考えるのでは本末転倒です。じぶんが他人の評価軸にあわせることになり、それこそ、じぶんが他人の人生を生きることになってしまいます。
そういう意味では、「しょせんは他人」という割り切りもよいのではないでしょうか。
まとめ
ヒトが他人との関わりのなかで生きていく以上、他人からの評価は不可避です。というわけで、他人からの評価に打ちのめされたときにどうするか? についてお話をしてきました。
本来は、「他人は他人、じぶんはじぶん」と割り切って考えられるのがいちばんです。とはいえ、それはクチで言うほどカンタンなことではありませんから。打ちのめされたときにどうするかを、考えておくのもよいのではないでしょうか。
- 一石投じることができた
- 評価がないほうが問題
- 言語化できるチャンス
- 楽しめたらOK
- 受け手しだい