長らく、発信を続けています。それも、いろいろな発信をしています。そのなかでおもうのは、発信はじぶんを塗り替えるということ。それってどういうこと?というお話です。
発信をしていなければ
2016年4月に独立して以来、毎日なにかしらの発信を続けています。このブログもしかり、メルマガやYouTube、音声配信(stand.fm)など。
そんな「発信」について感じているのが、「発信はじぶんを塗り替える」ということです。発信をしていなければ、僕は僕を塗り替えられていなかったかもしれず。
いっぽうで、発信をはじめたこと・続けてきたことで、僕は僕を塗り替えられているような気がする。そういうことです。いやいや、「じぶんを塗り替える」ってどういうこと?
と、おもわれるかもしれませんので。そのあたりを、このあとお話ししてみます。
発信はじぶんを塗り替える、とは
不完全を許せる
このブログをはじめたばかりのころ、うまく文章が書けずにだいぶ悩みました。もともと、不特定多数の人たちに向けた文章など、書いたことがないのですから当然です。
それでも、発信をはじめる・続けると決めた以上は、書いた文章を「公開」しなければ意味がありません。なので、「ある意味」では不完全な文章を後悔し続けていたわけです。
ある意味というのは、全力で書いてはいるけれど、ベストではないということ。ベスト、つまり、完全を待っていたら、いつまでたっても公開はできなくなってしまいます。
だから、完全ではないことを許して公開をするほかなかったのです。などといえば、いまは完全なのか?と、おもわれるかもしれませんが。そんなことあるわけがないです。
僕に関していえば、いまもまだ「欠陥」の多い文章を書いています(くわしくは語りませんが、客観的にもそう評価されることがあります)。ただそれでも、はじめのころよりはよくなりました。
よくなったというのは、僕個人の主観でもあり、あるいは、書く仕事のご依頼をいただけるようになったこと、それも少しずつですが増えていることからもわかります。
そんないまにいたるに必要だったのが、「不完全を許すこと」だとおもうのですね。うまく書けないなぁ…と悩みながらも、不完全をあきらめて書き続けたからこそだとおもうのです。
発信をすることで、僕は不完全を許せるようになって。おかげで、少し違った景色が見られるようになって。それは、これまでのじぶんを塗り替えたといえるのでは?と、おもっています。
それがもし、「不完全が許せない」と公開(=発信)をしなかったり、書くこと(=発信)自体をあきらめていればいまはなかった。というのは、後付けだろう?といわれればそれまでですが。
いろいろ試せる
発信にもいろいろあります。冒頭でも挙げたとおり、ブログにメルマガ、YouTube、音声配信、各種SNSなど。もう少し広く見れば、Kindle出版や自主開催セミナーなども挙げられます。
というわけで、僕もいろいろな発信をしてきました。はじめはブログだけでしたが、発信で仕事をしていく(発信をきっかけに仕事をご依頼いただく)ためには、ブログだけでは不足かも…
といった不安もあり、いろいろな発信を試してきました。なので、発信をはじめたことで、おのずとほかの発信もせざるをえなくなった。と、受け身でとらえることもできますね。
ただ、受け身であれ、自主的であれ、いろいろ試してきたことに変わりありません。で、試したからどうだというのか?試した結果として、少しは身(あるいは実)になるものがありました。
書く発信を増やせば、少しは書けるようになるし、YouTubeをはじめれば、ひとり語りに慣れられるし、動画編集のスキルも身につきます。セミナーを開催すれば、人を集めるところから開催するまでのスキル、人前で話す度胸が身につくといえます。
そこからお仕事のご依頼につながれば、売上という実にもなるわけで。まったくのゼロから、そこまでたどり着けたということは、これもまた、じぶんを塗り替えられたということなのでは?と、おもうのです。
繰り返しになりますが、発信をはじめたことで、より発信せざるをえない環境となり、いろいろと試さざるをえなくなった。良かれ悪かれ、発信にはそういうところがあるようです。
じぶんを認める
さきほど、不完全を許せるという話をしました。ですが、許してばかりもいられません。発信をするようになると、他人の発信も目に入りやすくなります。
というか、じぶんの発信をよりよくするためにも、他人の発信から学ぶことも必要なのですね。そこで、他人の発信を見ているとどうなるか?端的にいえば、イヤになります。
他人がしている「すばらしい発信」を見ると、じぶんの拙さに気づいてしまうわけで、打ち負かされてツラい思いもするわけで。そうなると、不完全を許せるのか?というハナシです。
なので、発信を続けていれば不完全を許せます!などといってはみたものの、ときに、許せなくなることはありますね。はい。
で、ここがひとつの分かれ道だとおもいます。じぶんはダメだとあきらめるのか?ダメはダメなりに、一歩でも前に進むために勉強(挑戦)を続ける道を選ぶのか?
基本線として、僕は後者です。毎日、少しずつでも勉強を続ける。他人に追いつくことはできないかもしれないけれど、昨日のじぶんよりも前を行くことはできる。前に進むことができる。
そう考えて、日々勉強をしながら、発信を続けています。言い換えると、発信を続けるという覚悟がなければ、勉強なんてしていないかもしれない。だとしたら、発信様々です。
もっとも、そのような覚悟も「基本線」なので。心が弱っているときに揺らぐことはあります。すばらしい他人に追いつくことはできない…と、打ちひしがれることはあります。
それでもいろいろ「くふう(日々のルーティーンとか習慣とか)」して、基本線ではじぶんを認められるようになったこともまた、じぶんを塗り替えられたということだとおもうのです。
まとめ
長らく、発信を続けています。それも、いろいろな発信をしています。そのなかでおもうのは、発信はじぶんを塗り替えるということ。それってどういうこと?というお話をしてみました。
いまとなっては、発信が人生のいちぶのようであり、やめたくはないし、やめないじぶんでありたいと考えています。実際にはわかりません、やめちゃうかもしれません。
でも、やめちゃうかもしれない確率は、日に日に下がっているようにおもう。それもまた、じぶんを塗り替え続けているということなのでしょう。だからなに?
じぶんを塗り替えたいなら、発信はおすすめです。弱いじぶんを自覚している人にほどおすすめです。弱い僕(少なくとも、僕はいまよりずっと弱かった)がいっているのだから間違いありません。