節目を意識しない、人生のシームレスを感じるという生き方

シームレスな生き方

もうすぐ誕生日。そのときから、あらためてはじめよう。

あらためて何かをはじめるにあたり。誕生日、周年記念、年初め、月初めなど。「節目」は大小いろいろありますが。

あまり節目を意識しすぎると。ほんとうにはじめることができず、はじめても続かず、成し遂げることができないかも。きょうは、そんなお話です。

目次

節目を意識しすぎるから、好機を逃すヒトになる

先日、生まれてから42回目の誕生日を迎えるにあたり。「よし、42歳になったら。あらためて〇〇をはじめよう!」と考えていたことがありました。

〇〇がナニかはさておき。しばらくして気が付いたのは、「コイツは危険な考え方だなぁ」ということです。どこが危険なのか?

それは、「~になったら、あらためて」と、行動をいったん保留したことです。

理由にできる「節目」ならばいろいろある

なんだかもっともらしく聞こえる「~になったら、あらためて」のフレーズですが。単に、行動を先延ばしにしたにすぎません。

にもかかわらず、それを許してしまうのは。「節目」が持つイベント性や、人生に与えるインパクトの大きさなど。「あらためてはじめる」にふさわしい時機、との語感を伴うからとも言えます。

そんな「節目」たちの例を挙げるのであれば、

  • 〇歳になってから、・・・
  • 〇周年を機に、・・・
  • 年が明けてから、・・・
  • ~が終わってから、・・・

誕生日、周年記念、年初めなど、皆に共通の大きな節目もあれば。いまの仕事が片付いたら、こんどの試験が終わってからなど、個々人における小さな節目もあることでしょう。

いずれにせよ、「~になったら、あらためて」と言うのであれば。節目を理由にした先延ばしである、という考えは「危険」ではないのか? という問題提起です。

 

節目を理由にすると、致命的に「ダメなヒト化」するワケ

物事の先延ばしがいかん、というのは周知の事実。しかし、これに輪をかけて。「節目を理由にした先延ばし」はたいへんマズかろう、という点について2つほど。

自分でエンジンをかけられないダメなヒト

〇歳になったら、年が明けたら。なんていう自然現象(なにもせずにいても起きるという意味で)に委ねていると。

物事を自分のチカラではじめることができない人になっていく。そんな気がしています。

言うまでもないことですが。物事に対する目的意識がはっきりしているのなら、本来、そこをきっかけに動きはじめることができるはずで。

それができない。自然現象的な「節目」に頼ってしまう、というのであれば。

自分でエンジンをかけることができないダメな人、そう言われてしまうのも仕方なしです。そんなダメな人にならないためには。

物事の目的と節目とのあいだに、「あらためる」だけの正しい理由はあるのか? この問いを自らにぶつけることができるかにかかっています。 

言い訳上手・あきらめ上手なダメなヒト

例に挙げているような「節目」であれば、まだもっともらしくは聞こえるものの。いずれ、こんなことを言い出すのかもしれません。

  • 来月から、・・・
  • 来週から、・・・
  • 明日から、・・・

さきほどまでの誕生日や、周年記念、年初めなどに比べると。これらは、ずっと小さな節目です。

こうなると、もはや言い訳、言い逃れの類であって。言い訳上手なダメな人、そう言われてしまうのかもしれません。

お気づきのとおり。言い訳、言い逃れの結果、物事をカンタンにあきらめるようにもなってしまいます。できなくてもしようがない、また明日からね。と、毎日言っているとか・・・

わたし自身も含めて、ヒトはラクな方、ラクな方へと行きたがる傾向にあるもので。ラクで都合がイイことには、すぐに乗っかってしまいたくなるという習性があります。

そういう意味では、あまり「ラクな言葉」を使わないことです。自分がラクだと感じる言葉を使わないこと。

「~になったら、あらためて」という言葉には、もれなくラクで都合の良い要素が含まれることを自覚しなければいけません。あきらめ上手な自分にならないために。

 

節目をつくらず、シームレスを感じるという生き方

節目を理由に行動を保留しているとダメになる、そんな話をしてきました。

ところで。ここで言う「節目」が持つ本質とはいったいなんなのか? ということについて触れておくことにします。

節目とは「時の流れを分断しよう」という暴挙

結論として。「節目」とは、流れ続ける時間を分断しようとする行為だと言えます。たとえば、

  • 42歳の誕生日 → 41歳までの自分と42歳からの自分とに分断
  • 年明け(元日) → 旧年までと新年からとに分断
  • 来月 → 今月までと来月以降とに分断
  • 明日 → 今日までと明日以降とに分断

かくして、わたしたちは「節目」により、あたかも「時」を分断できたかのような錯覚に陥ります。

41歳までの自分とは決別して、42歳からのあたらしい自分を生きるぞ。みたいな。

そのような決意について、概念や心情としてはもちろん理解できるのですが。理屈の上ではどうにも不可解な言い分だとは思いませんか?

なぜなら、時の流れにはわずか1秒のよどみもなく。何人によっても決して断たれることがない。不可分な時間の中にわたしたちは生きているからです。

誕生日の瞬間を境に、41歳までのわたしと、42歳になったわたしとに。いったいなんの違いがあるというのでしょう? 

時は流れ続ける、ヒトは変わり続ける

さっきまで41歳だったわたしと、いま42歳になったわたしとの間に、年齢以外の違いは見当たりません。本質的には変わりなし。

「時間」が分けられないことと同様に。わたしたち「ヒト」もまた、「節目」によって分けることはできないのです。

にもかかわらず。「節目」を頼りに、「~になったら、あらためて」と願うことはやはり都合が良すぎるわけで。

なにかをはじめよう、あるいは、変わろうなどと考えるのであれば。「節目」に頼ってばかりではいられない、ということです。

村上春樹さんの小説に、こんなフレーズがあります ↓

僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。

時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。

そして恐ろしいことに、それは事実なのだ。

【 ダンス・ダンス・ダンス / 村上春樹 より引用 】 

節目を意識するよりも、時のつながりを意識して。そんなシームレス(途切れのない、継ぎ目のない)な生き方が、

  • 物事をはじめられない
  • 物事が続かない
  • 物事を成し遂げられない

という自分を変えていくヒントになるのかもしれもしれません。月並みな言葉ではありますが、つまりは、

いまなにができるか? いまなにをするか?

 

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  きょうの執筆後記
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