【ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹】ほんとうに活かせる名言をみつけよう #11

ダンス・ダンス・ダンス

きょうの名言は、村上春樹さんの「ダンス・ダンス・ダンス」から。

古今東西、世の中はたくさんの名言であふれています。自分にとって「活かせる」名言、みつけてみませんか?

目次

ハルキストではない僕にできること

村上春樹さんの作品を読み始めたのはわたしが大学生のときです。

「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」と続くシリーズはお気に入りで、それ以来なんど読み返したかわかりません。

とはいえ。わたし自身、村上春樹さんの熱心なファンであることの代名詞である「ハルキスト」ではないと思っています。

熱心なファンの方というのは、発売日前から期待に胸を膨らませ、発売されるや否や夜を徹してでもその作品に目を通し。そして、作品についての論評をかわします。

ところが、わたしときたら村上春樹さんの新作が出てもすぐに買って読むようなことはありません。ほとぼりが冷めたころにようやく読むような感じです。

「世間の論評」という先入観を持ちながら、作品を読むのがイヤなんです。どうにもひねくれていますね。

それに、わたしは作品を読みこそすれ、論評をする気はありません。もっとも、論評できるような「作品の理解」にまでいたっていないようですし。

特に最近の村上春樹さんの作品は、わたしにとっては複雑怪奇。「ストーリーと結論がよくわからん!でも好き」くらいの理解では、論評なんてとてもとても・・・

そんなわたしですから、できることは論評ではなく。いつもどおり、わたしにとっての名言を紹介することです。

作品のあらすじ

名言の前に、簡単に作品のあらすじを。

作中の主人公「僕」は、青春3部作と言われる「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」に登場する「僕」と同一人物です。

東京住まいでフリーライターの「僕」は、ある日。函館の取材のあと、札幌行きの特急列車に乗ることを決意します。

そこにあるはずの「いるかホテル」を通じて耳にした、誰かの呼ぶ声に「僕」は応えるために。「僕」の中で損なわれていた何かを取り戻すために。

前作「羊をめぐる冒険」の舞台のひとつ「いるかホテル」を起点に、「僕」の奇妙な運命の物語がはじまります。

自分自身をただしく見る、ということ

「僕」には、奇妙な運命に翻弄される危うさはありますが、性格的にはかなり強い「芯」をもつ人物です。自分は自分、他人は他人。はっきりしています。

他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。

それが「僕」の考えです。

作中ではたびたび、人から「変わっている」と評される「僕」は世間ずれしている観はあるものの、爽快なほどに「まっすぐ」でもあります。

そしてなにより、「自分自身に目を向ける」ことができる人です。

実際には「自分自身に目を向ける」ことは決して容易なことではありません。わたしもそうですが、どうしても他人の目は気になるものだからです。

こんな風に思われたらやだな、そう考えることはありませんか?ですが他人を気にしすぎるようなことがあれば、自分の芯はブレることになります。

世の中には誤解というものはない。考え方の違いがあるだけだ。それが僕の考え方だ。

わたしがもっとも好きな「僕」の考え方がこれ。ときどき、これに近いフレーズを「拝借」しております(笑)

突き放したような表現をしながらも、懐の深さを感じるセリフではないでしょうか。

自分の芯をほんとうに大事にしているからこそ、他人の芯もまたほんとうに大事にできる。そのようにわたしは受け取っています。

他人の考え方については、その「良い悪い」に気を取られがちです。けれどそれはそれとして。まずは「違い」として受け入れる姿勢に共感します。

人は弱い。だから命に悔いることがないように

人が持っている「心の傷」について、「僕」はこんなことを言っています。

日常に飲み込まれて、どれが傷なのかわからなくなっちゃうんだ。でもそれはそこにある。傷というものはそういうものなんだ。これといって取り出して見せることのできるものじゃないし、見せることのできるものは、そんなの大した傷じゃない

これは、「僕」がした離婚という「心の傷」についてたずねられた際のセリフです。

「僕」には、一貫して「タフであろうとしよう」という思いを感じます。シリーズ作品を通じて感じられる「僕」の思いです。

それは、「人間はそもそも弱いものなのだ」という前提を認めているからこその思い。弱いことを認めたうえで少しでも強くあろうと努力する、それが大事なのだという思いが「僕」にはあります。

そのあたりは以前の記事、「風の歌を聴け」でも触れました。

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もうひとつ「僕」の思いについて。「僕」が「ダンス・ダンス・ダンス」の中で、強い語調をとる場面があります。それがこれ。

人の人生というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に

作中である人物が死んだ際。「僕」の友人である「ユキ」はその死んだ人物に対して「自分がひどいことをした」と後悔の念を口にします。

「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」とはじめに一蹴したうえでの「ユキ」に対するセリフでした。

言っていることは至極あたりまえのことですが、実践できるかとなると別。命やそれに対する時間というものを粗雑に扱っていることを戒められたようで、つよく心に響く言葉です。

「僕」の強い言葉に涙を流した「ユキ」に、「僕」は言います。

言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残るし、残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ

「僕」は34歳、実は友人関係の「ユキ」は13歳。奇妙な人間関係の1シーンですが、相手を思えばこそ自分の思いに躊躇のない「僕」に魅せられます。

ダンス・ダンス・ダンス

作品のタイトル「ダンス・ダンス・ダンス」。その「ダンス」、つまり「踊る」ということが物語を進展させるカギになっています。

作中、幾度となく「踊るんだよ」と「僕」は自らを鼓舞します。それはさながら私たち読み手に向けたメッセージのようでもあります。

立ち止まらないこと。踊り続けること。みんなが感心するくらいうまく踊ること。

「僕」ほどの奇妙さはないにせよ。誰しも人生の困難に直面し、体も気持ちもこわばるという経験があるでしょう。

そんなとき、大事なことはそれでも動き続けること。踊ること。自分の知っているステップで構わないから踊り続けること。

立ち止まっていても、状況を変えることはできないからです。悩むより前に動くこと。

「ダンス・ダンス・ダンス」に込められたメッセージとして、わたしはそのように感じています。

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  きょうの執筆後記
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昨日は午後から、読書に関するセミナーに参加。読書に関して、あらたな視点を学んできました。いまの自分の読書法に足りない要素を改善して、より有意義な読書に近づけていきます。

あらためて感じたことは、「速く読む」に縛られないこと。結果、「速く読める」を目指すこと。これは気を付けないと「速く読む」がほんとうに目的になってしまいます。

ダンス・ダンス・ダンス

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