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誰にも読まれないかもしれない文章を書き続けるのは

誰にも読まれないかもしれない文章を書き続けるのは

もうすぐ3,000日、ブログの毎日更新を続けています。そのブログは、いうなれば「誰にも読まれないかもしれない文章」であり、それでも書き続ける意味とは…?について書いてみました。

目次

誰かに見つけてもらえなければ

ブログの毎日更新をはじめてから、まもなく3,000日を迎えようとしています。3,000という数字自体に意味はないにしても、どこかしら節目感のある値だ、とは感じているところです。

それはさておき、ブログというものは「待ち」の発信であり、書いたからといって誰にも読まれずにおわるかもしれない文章です。SNSのように、誰かのタイムラインに流れるものでもなく、メルマガのように、誰かのメールボックスに届くこともありません。

必然にしろ偶然にしろ、誰かに見つけてもらえなければ、見つけてもらえても読んでみようとおもってもらえなければ、けして日の目を見ることがない、というのがブログだといえます。

だとすれば、誰にも読まれないかもしれない文章を書き続ける意味とは…?という疑問もあるでしょう。実際、その疑問に対する答えを見つけきれずに、書くことをやめてしまう人もいます。

かくいうわたしも、やめそうになった経験はあるわけですが。何はともあれ、ブログを続けられている理由の1つとして、「誰にも読まれないかもしれない文章を書き続ける意味」についてお話をしてみます。

具体的には次のとおりです↓

誰にも読まれないかもしれない文章を書き続ける意味
  • いつ届くかはわからない
  • 書くことが武器になる
  • 武器は錆びるし腕は鈍る

このあと、順番に説明をしてみます。

誰にも読まれないかもしれない文章を書き続ける意味

いつ届くかはわからない

きょう書いたブログ記事(文章)が、きょう誰かに届くとは限りません。届いたとしても、それがきょう誰かの役に立つかどうかもわかりません。

いっぽうで、1年前に書いたブログ記事が、きょう誰かに届き、きょう誰かの役に立つことはありえます。なので、「〇〇の記事を読んで…」と仕事のご依頼をいただけることはあるものです。書いた本人も、そういえばそんな記事を書いたなぁ、などというくらいに時間がたってから。

結局のところ、文章の内容が、誰の役に立つのかはわからず、その誰かがいつ文章の内容を必要とするかはわかりません。じぶんの書いた文章が、いつ誰かに必要とされるかはわからないのです。

これはけして悲観的な話ではなくて、「じぶんの書いた文章は、いつか将来に必要とされる可能性がある」という希望的な話でもあります。「だから、きょう誰にも読まれないとしても、どんどん書いていこうぜ!」という前向きなメッセージでもあったりするわけです。

ちなみに、数ヶ月やそこら書き続けたくらいで「誰からも必要とされない…」などと嘆くのは早すぎます。わたしは、相応の手応えをえるまでに1年くらいはかかりました。

いやいや、オマエといっしょにするなよ!と、おもわれるかもしれませんが。わたしも含めて、多くの人は「凡人」です。凡人が努力と忍耐を怠れば、何も成しえないというが持論でもあります。

書くことで何かを成したいというのなら、少なくとも1年は毎日書き続けましょう。異論があるのは百も承知です。が、わたしには実体験という裏付けがありますから、カンタンにはひるみません。

書くことが武器になる

じぶんの書いた文章は、いつか将来に必要とされる可能性がある。などと、気を持たせるようなことを前述しましたが。100書いた文章について、そのすべてが誰かに届くわけでもありません。

もしかしたら、100書いたうちの10とか20くらいしか届かないかもしれないし、場合によってはもっと少ないかもしれない。なぁんだ、やっぱり文章を書くってさみしいじゃない。そうおもわれるかもしれません。

ですが、文章を書き続ける意味はほかにもあります。それは、「書くことが武器になる」ということです。またまたぁ、どっかで聞いたような言葉を持ち出しちゃって。と、冷ややかな視線を向けられるのでしょうか。

それでも、わたしはひるまずに「だって、武器になったもん」と答えることができます。以前に比べれば、執筆のご依頼をいただくことが増えましたし、書籍の出版をすることもできました。

おかげさまで、2冊めの出版のお話もいただき、これから執筆をはじめるところです。ちゃんと出版できるかは、また別のハナシではあるものの。皆が皆、出版したくてもできるわけではない以上、書き続けたことが武器になったと考えています。

実際に、出版社の方も、ブログやKindle出版など「既出」の文章を見て、「この人は本を書けそうかな?」という目利きをしているとも聞きますし。書くことが武器になる、といってよいはずです。

それでもなお、誰にも読まれないかもしれない文章を書くのは…と、首をかしげる人もいるでしょう。では、うかがいます。野球選手が素振りをするのは誰のためですか?

他人のためではなく、じぶんのためであるはずです。じぶんのチカラをつけるためにバットを振るはずです。いつか誰かのためになれるよう、きょうも、じぶんのためにバットを振りましょう。

わたしは、そういう心持ちでいます。

武器は錆びるし腕は鈍る

書くことが武器になる、といいました。そして、書くことが武器になった、というような話もしました(執筆の依頼をいただいたり、書籍の出版ができたり)。

ならば、もう書かなくてもよくね?少なくとも、そんなに書き続けなくてもよくね?と、おもわれるかもしれません。ですが、わたしはいまのところ、書くことをやめるつもりはありません。

何なら、以前よりもさらに多くの文章を書くようになりました。まぁ、必ずしも量を書けばいい、というわけではないことはあるにせよ、それは書きたくない人の言い訳でもあるはずです。

繰り返しになりますが、凡人に必要なものは努力と忍耐。必要な努力、必要な忍耐を惜しむものではありません。そのうえで、放っておけば、武器は錆びるし腕は鈍るものです。

もう書かなくてもよくね?などといえるほど、わたしは「書ける」わけではありません。書くのをやめたら、書くチカラはちゃんと衰えるであろうという確信があります。ヘンな確信ですけど。

だから、「せっかくの武器が錆びないように、腕が鈍らないように」との思いもあって書き続けています。たとえそれが、誰にも読まれないかもしれない文章であったとしてもです。

そういう意味では、ひどく臆病ですし、自信がないともいえます。それらの感情・感覚には、負の側面もありますが、努力や忍耐をつなぎとめる「くさび」としても役立つものです。

だとすれば、ミョーに自信過剰になるよりかは、自信がないくらいがちょうどいいのかもしれません。自信がないからこそ、バットを振りましょう。自信がないからこそ書き続けてみましょう。

わたしは、それを実践していくつもりです。

まとめ

もうすぐ3,000日、ブログの毎日更新を続けています。そのブログは、いうなれば「誰にも読まれないかもしれない文章」であり、それでも書き続ける意味とは…?について書いてみました。

意外と、みずから書く人は少ないですし(コピペや生成AI頼みは多くても)、書き続ける人となるともっと少ないものです。それでも書き続けることへの興味やきっかけに、本記事がなるのであれば幸いです。

誰にも読まれないかもしれない文章を書き続ける意味
  • いつ届くかはわからない
  • 書くことが武器になる
  • 武器は錆びるし腕は鈍る
誰にも読まれないかもしれない文章を書き続けるのは

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